十字架重い
- 吉澤 利仁
- 2021年2月22日
- 読了時間: 2分
更新日:2021年2月23日
トム・ヨークの詩に「10代ほど愚かで子供じみた時期はない。」という一節がある。
確かにその通りだと思うが、「愚かさ」の加減など人の人生まちまち。
人生で1番愚かしい時期とはいつだろうか。
私は今までうんと愚かだったがこれは一生続くものなのだろうか。
過ちは誰にでもあると思うし、遡って変えたい過去があると思う。
過去で成り立つ現在。
目に見えない過去というものの積み重ねでできてる、目に見える現在という不思議。
記憶というものはいつでも我々の胸をきつくきつく締めつける。
幼少期の祖父母との思い出。
意識せずともいつの間にか毎日一緒に過ごすようになった小さな友たち。
ボールの転がる学校の校庭。
初恋。
部活の帰り道。
義務や拘束から開放され自由なったつもりで青春の終焉。
車、金、幾人かの恋人達。
出会い、別れ、裏切り、恥、拭いきれない悲しみや怒り。
そんな数え切れない程の過去の記憶は、私の頭の中で確かにぐるぐると回っていて、いつも次の一手の原動力となっている。
その反面、この記憶という代物を疑って止まない日もある。
まるで頭にメモリーカードでも差し込まれているのではないかと、鮮明に浮かび上がる過去の場面に身震いする。
ほんとに過去などあったのだろうか?
他人は決して知り得ない、まるで自分しか読み解けない小説のよう。曖昧過ぎる。
時間という一瞬一瞬死んでは生まれる四次元モンスターに翻弄される我々の人生。
そう考えると絶対と思っていた今現在、この瞬間も全て嘘っぱちに思えてならない。
だから私は過去という曖昧をこれ以上曖昧にしない為にこうしてメモを取るのだろう。
存在したかどうかが私の頭でしか証明できないその曖昧さから逃れぬ為に。
どうしたって今までの散々な愚かな行為も、全て十字架として背負わなければいけないし、その重さをしっかり熟知しないと結局潰れてしまう。
自分を責め続ける毎日があっても構わない。
それが背負った十字架の重さだ。
自身の愚かしさを噛みしだく。
それが沢山の過去を積み上げた私達の、これから死ぬまで一生付いてまわる生き方なのだ。