立つ
- 吉澤 利仁
- 2021年2月22日
- 読了時間: 2分
自立ほど難しいものはない。 家庭を持ったり就職したり親元離れたり。そんなものは自立にはならないのは経験的に知っている。 どこにいようと何をしてようと自立とはいつでも精神性が一人立ちしてる事に他ならない。 メディアしかりSNSしかり教育しかり国家しかり、そういった洗脳媒体に囲まれた社会に生きる私達。 言わば会社も学校も家庭教育も一種の洗脳であり、私達はそんな中で周囲の間違った考えに惑わされず真実に添う生き方をしなければならない。 それが真の意味での自立である。 そんな中、家庭を築くというのは相手と自分の洗脳をどれだけバランスよく保つかという事だと思う。 育った環境というのは人にとって絶対的原風景。それを肯定するのに生きてしまう所がある。その肯定の加減によっては他人と衝突を起こす。 些細な事でパートナーと喧嘩するとはまさしくこれである。 そもそもこの育てられた環境ってものにどうしてこうも信頼しきれる我々があるのだろうか。 それこそ他ならぬ教育という洗脳なのだろう。 家庭というのは最小にして最大の洗脳王国である。 白を黒と教わった幼子はある時期を迎えるまで白を黒だと思い込み育つ。そしてある時期が来るとそれが間違いだったと気付く。そのある時期というのが他人との接触であったり学校、社会であったり。社会の常識や他人の多数派にどんどん飲み込まれ、気付く、という事だったり。 大切なのは
気付く。 と
選択である。 親の教えより社会や他人のほうが正しい場合が多々ある。逆も然り。 この時にまず間違いに気付き、そしてどちらが正しいか、もしくはどちらも間違っているか自身が選択するのだ。 基準を持たぬとこれが中々に難しい。 国家、社会、メディア、他人に流され、または流れさえも分からないくらい鈍感になり思考停止の日常。 気付き。選択。は自立への第一歩である。 そしてその気付き、選択をする基準こそ、その人の知識そのものなのである。知識とは知を認識する力だ。見かけ倒しではない知識を持った人間ほど強いものを私は知らない。彼等は決して選択を誤らない。 知識とは己の甲冑であり刀だ。 自身を守る武器である。 故に浅はかな知は浅はかな人間を育てやがて浅はかな社会を形成していく。
社会という杖を使わず、自分の足で立たなきゃ。
走り出すのはそこからです。