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novel

小説

「キリストのようなポーズ」

 

※ シリーズ一作目が製本完成しました ※

 

天分の芸術的才能を持つアキ。

彼のバンド「リジン」が巻き起こす日本ロック革命。

破滅的でありながら哲学的であり、

時に愛に満ちた天才達の物語。

定価 1000円(+送料)

​100部限定販売。

ご購入希望の方は「shop」よりお求め下さい。

※現在品切れとなっております。申し訳ございません。

当サイトではvol.2までを公開中。​

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

製本版「キリストのようなポーズ vol.1」

        「キリストのようなポーズ」

 

vol.1

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]  

vol.2

[15] [16] [17] 

 

 

vol.1~​

1


まだ本来の色調まで至らぬ若い陽の光が、薄いまぶたを突き抜け眼球までをもオレンジ色に染めた。
けたたましいその色彩に気付いた時、橋の下で目を覚ます。
身震いと激しい頭痛、口の中でカラカラの喉が水分を懇願している。

肩まで伸びた黒髪と不精髭には砂やら土が付着し最近見かけるようになった蟻が腕を伝う。
真理の家に転がり込んで二年。

酔っていたのか薬なのか、何かを怒鳴り付けては壁に大きな穴を空け、飛び出したきり帰っていない。
それ以来またアキの日常は常軌を逸する事になっていった。
昨晩はライブを終えて大量の酒を煽り、クラブのトイレで薬をやった後、見知らぬ場所で見ず知らずの女がベッドの横にいた所までなら記憶がある。
ジョン・ゾーンの白いバンドTシャツは血で襟から右胸あたりまで真っ赤だ。

驚き自身を確認する。

どうやら大量の鼻血と口の中、右頬の内っ側を大きく切っていた。

舌先にベロンベロンと破れた皮が当たる。
「とにかく水」と思いよたよた歩き出しながら、昨晩の記憶を呼び戻す。
何があったんだ?
唯一の救いは、そこは知っている場所で昔2度ほどホームレスとなっては夜を明かした場所であったことだ。
ポケットを探り所持品を確認する。

その瞬間、友川かずきの「ワルツ」の着信音が左ポケットの奥深くから鳴り響く。
慌てて携帯を取るとそれは聞き慣れた純平の声だった。
「やっと出た!!おいっ、どこに居んだよ。だいじょぶか、アキ?」
「あぁ、口の中がいてーよ。なんなんだよこれ?」
「昨日はめちゃくちゃだよ。」
純平はため息をつく。
「レンチェのヒロさんと一戦交えたんだぜ。」
多少困ったように笑って話した。
「ヒロさんもラリってたからレンチェの連中と他のバンドの奴らも協力して止めてくれたけど、お前思いっきり右フックもらってたぜ。」
噴き出すように笑った。
「マジかぁ。俺がヒロと?あのヤロー、ギタリストのくせにフックなんかくれやがって。」
口の中をもごもごしながらしかめっ面だ。
「んで原因は?」
「お前がフル・レンチェの音楽否定したからだよ。レンチェの核はヒロさんだろ?ヒロさんの音楽話しに楯突いたんだよ。」
昔よくアキ達のバンドと対バンしてたフル・レンチェはよく知っていたし、ヒロは何かと面倒見もよく、アキやその他のインディーズバンドにとって兄貴分のような存在だった。
純平の話しだとアキがレンチェの歌詞は詰まらないと言ったらしい。
難しい言葉の繋ぎ合わせだけで全体像を見失い情景が浮かばないと。
音と言葉との因果関係を見出す事ができないなどと、ペラペラと止む事のない理屈で毒ついたようだ。
作詞作曲は全てヒロだった。
始めは笑ってたようだが、あまりにもしつこく、そしてどこか的を得たその言葉に段々と表情を変え最後は取っ組み合いの挙げ句、右フックを放った。
血だらけになったアキは
「俺は俺の聖地で絶望の歌詞を蓄える」
と言い捨て出て行ったという。
その話しを聞き二人してまた噴き出す。
「所でどこよ?」
純平が尋ねる。
「橋。」
「あれ?昨日夜中探し回ったけどそこに居なかったなぁ。まぁいいや。待っとけ、今から行ってやっから。」

純平はアキとスリーピースのバンドを組むベーシストだ。
ファンキーというよりは吉沢元治のようなアーティスティックなベーシストでエレキはもちろん、ウッドベースやチェロまで熟す。
幼稚園から中学に上がるまでピアノとバイオリンも習っていた。
TOOLのジャスティンのようにギターのようなベースラインを引く事もあった。
少しブラウンがかった長髪にパーマをかけ全盛期のロバート・プラントのようだ。
顔は深い二重まぶたに瞳が大きく、鼻、口共によく整った、いかにもモテそうなバンドマンといったところである。
背丈は187ありやせ型、指が以上に長くタッピングの如くフルピッキングをこなした。
一度演奏するとそのスケールの大きさに仁王の如く鬼気迫るものを感じさせるのは不思議なものだ。
優しく気が利き、何よりもアキを天才扱いしている。
以上な程に。
それは尊敬を通り越しどこか崇拝の気配すらあった。
優し過ぎて色々背負い込む事も多々ありいつも周囲を気に掛けている。
アキは幾度となく彼に救われたし、今後も多分に迷惑をかけ続けるのだろう。
アキは少し血の滲んだクシャクシャのセブンスターをくわえ、よく出演するGAYAGAというライブハウスのロゴ入りライターで火を灯す。
セブンスター独特の少し香りを漂わせる煙と口の中の血、それに酒の混じった粘っこい唾液が合間って吐き出すように一服する。
4月の心地よい風が通り抜けるが車で走る人々は、Tシャツを血に染めた男を眉間にシワを寄せながら通りすがる。
アキはわざと目を合わせ、行ってしまう車をあえて目で追っている。
15分もすると焦げ茶にオフホワイトのラインが入ったワーゲンTYPE2で純平がやってきた。
テキサスから取り寄せた代物だ。
左ハンドルなうえにマニュアルときたらそれなりに慣れを要するだろう。
それらを初めから難なく操る純平は器用な男だった。
「すげーな。血だらけじゃん」
純平がペットボトルの水を差し出した。
タバコを土手の方へ投げ捨て、水を口に注ぎぐちゅぐちゅとした後に吐き出す。
若干血の混じったその水は異様に泡立ちアスファルトの上に佇む。
続けてペットボトル半分ぐらいまで一気に飲み干す。
「はぁぁ」と大きなため息のあと全てを飲み干した。
純平は少し笑ってまだあるぞと、一口だけ飲みかけた自分の水を差し出した。
アキはそれを無視して車に乗り込む。
純平も運転席へと乗り込む。
「夏のツアー前に事件起こすなよな。お前の音聴きたがってる奴は全国にいるんだから。」

アキ達のバンド「リジン」はアンダーグラウンドでは既にカリスマ的存在であり「信者」と呼ばれる一部の熱狂的なファンがデビュー当時から付いてまわった。
アキを殴ったヒロが率いるフル・レンチェも全国区のバンドにのし上がり飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
リジンとフル・レンチェ、後にこの2バンドは90年代初頭のシアトル、グランジシーンのニルヴァーナ、パールジャムのような一大ムーブメントの象徴的存在へと変貌していく。

「バンド辞めてやろーかな。」
ボソッとつぶやく。
「何で?」と純平。
アキは答えない。
「辞めたいなら辞めても構わないよ。お前は音楽だけに留まる器じゃないしな。きっとギター弾くのもお前という表現の一手段でしかないんだろ?」
アキは黙ったまま窓の外を虚ろな目で見ている。

純平がここまでアキを慕うようになったのはアキが書いた原稿用紙18枚にも及ぶ長い長い詩を読んでからだ。
彼曰く鉈で身体を真っ二つに裂かれ跡形もなく消えてしまう感覚に陥ったと言う。
身動きがとれなくなり気付いたら涙が溢れ嗚咽したという。
その事があってから純平は当時最強のバンドの名を欲しいままにしていた「KID IZO」を脱退しアキと行動を共にするようになった。
KID IZOのアルバムはジャパンチャートで3位を記録し武道館でもライブをする程の実力派であった。
当時純粋なロックバンドがタイアップ等もなくメジャーシーンのチャートで上位を記録する事は非常に珍しい事であった。
KID IZOでの純平のベーシストとしてのポジションは絶対的で、奏法や方向性は違うがレッチリのフリーのようなバンドでの存在感を放っていた。
純平の突然の脱退は日本のロック界に少なからず衝撃を与えた。
「坂本は?」
「あいつはああいう性格だからね、あまり深くは関わらないよ。12時過ぎた頃には帰ってたぜ。」

純平の紹介で元々インプロでJAZZを叩いてたドラマーの坂本薫を招き「リジン」は誕生した。
坂本は無口でとにかくタバコを口元から絶えさせない男だった。
少し赤みがかった長い髪をオールバックにし、傷跡のある目尻と切れ長の目はいつもクールで近寄り難いオーラを醸し出していた。
筋肉質で身体中にタトゥーを施し首筋には大蛇の鱗のような模様が見える。
その見た目とは裏腹に的確なリズムと変則と変拍子を見事に操るうまさは一流で、異常な程多い手数は3歳からの英才教育の賜物だ。
父親も兄もドラマーである。
プロとして海外での演奏も多く、国内外のアーティストのリスペクトを多く受ける。
アキは坂本との二人っきりのほとんど会話のない時間が案外好きだった。

「今日は夜にスタジオ抑えてあっから、とにかくそれまでゆっくり休めよ。俺は絵里香と出てそのまま坂本と落ち合うからベット使って構わねーよ。」
純平はタバコをふかしながら信号待ちをしている。
車のステレオからはオーティス・レディングのライブが流れていた。


2


シャワーを浴び頭痛薬をもらい少しギターをつま弾き眠る事にした。
その頃には純平とその同棲相手、絵里香は居なくなっていた。
シーンと静まり返る部屋。

青色の大きなデジタル時計をぼんやりと見ている。

昨晩の醜態を何となく振り返る。

急にどっしりと重たい闇が迫り来て胸を押し潰し深い鬱へといざなわれる感覚が分かった。

孤独というアキの1番の友人がやって来たのか。

全身に力が入りそれを開放したくて足をバタつかせる。

「クソがっ!!」

大声で叫ぶ。

一点を見つめ震える。

頭の中には無数の言葉や単語が乱舞し、赤や青や緑のイメージが点・線・面と形を変化させマーク・ロスコの馬鹿でかい絵画のようになった。

そんなオリジナリティのないものは許せなく一瞬にしてそれらを崩す。

音楽を大音量でかけようと思ったが、今のアキにはスピーカーのリモコンは遠過ぎる。

首を括りたくなる衝動に襲われる。

アキは極度の憂鬱質になる事が多々あった。

感情の起伏が激しく、賢者のように冷静で的確な時もあれば、薬漬けのジャンキーのような廃人になる事もあった。

まるで何人もの人格が潜む多重人格者のように日によって、ひどい時には午前と午後では別人の時がある。
呪文のように念仏のようにブツブツと何かを言っている。自分の頭を拳でコツコツと叩き始める。
その瞬間頭を過ぎり落ち着きを取り戻させてくれたのは真理だった。

真理の事を考えたら胸は痛むが落ち着けた。

彼女の家を飛び出してから一ヶ月、一度も会っていない。

連絡は二週間ぐらい前、純平の携帯に「生きてる?」を確認する電話を一度だけ。

小学生の頃からアキと真理はお互いを知っていた。

高校からはそれぞれ別の、自分の道を歩み始め、その後時期はバラバラだが二人共上京していた。

真理にとってアキは初恋の相手であり初めての相手であった。

15だった。

アキは高校を中退し17で上京し一人暮らしを始め、バイトの傍ら詩や小説、絵画や音楽を制作する日々を送った。

時には彫刻やオブジェの制作、CGやショートムービーの作成にも手を出した。

20歳の頃には音楽をやっている連中とつるむようになり、それからは酒とドラッグにも手を出しどうにも首が回らず友人知人、女の家を転々とし帰る場所すらない時もあった。

それでも内に秘めた爆発的表現の欲求は留まる事を知らず、どこであろうと遮二無二な制作の日々を続ける。人の家だろうが街頭だろうが橋の下であろうがお構いなしだ。
23の時、賞金目的で絵画を某有名コンクールに出品し、鳴り物入りでグランプリを獲得した。

絵画コンクールなどは芸大を出てないと書類選考でボツになるのが現状であるのは重々理解していたし、ほんとにアバンギャルドで革新的なものは審査員にそっぽを向かれるとダメもとだった。

審査員というものはそういった作品を否定する事で自身の立ち位置を保持する生き物だと思ってた。

それにきっと「本物」が恐いのだと。
グランプリを獲った時は「世の中も捨てたものじゃない」と思い、「保守的なハゲとデブの選考員共にもまだ見る目が残っていたか」などとその高飛車な態度で金さえもらえればと表彰式にも出ていかなかった。

後々これを面白がった美術雑誌からのインタビューを受け、日本美術会を一刀両断する鋭い観点と的確な論理、その哲学性に満ちた言葉は一つの事件となった。

ご老公共には激しい怒りと反感、批判を買い、グランプリを取り消す動きまで起こった。

その一方、燻った若者達には眩い光のようにも見えた。

それなりにちょっとした金と名声を手に入れ、それをきっかけに京橋の老舗現代ギャラリーで個展も行い、作品は売れに売れとりあえずは24歳にして将来を期待される絵描きとなった。

作品購入者の中に真理もいた。

真理は大学を出た後、大企業の事務員として就職したがうまく馴染めず、一年あまりで退社をしたようだ。

その後職を変え結局今は銀座の高級クラブで水商売なんかをやっている。

その出勤途上にアキの名前が書かれたギャラリー前のポスターを発見し、たまたま個展に立ち寄ったのだ。
その時の真理は決して嫌味ではない黒のドレスを身に付け、高いヒールとバレンシアガのバック、それらも全身黒といういでたちでそっと入ってきた。

アキは一瞬目をやるがそれが真理とは気付かず、ギャラリストとその顧客との間でタバコをふかす。

真理の事は中学時代まではよく知っていたが高校に入ってからはたまに友人を通しばったり会ったぐらいで、その後どう変貌していったかは知る由も無い。

中学時代の真理はほんとに短いショートカットで痩せてはいたが健康的でよく笑う子だった。

小さ過ぎる顔の割りに目はまん丸大きく、細く長い首はそのショートカットから覗かせる産毛すらないうなじをより魅力的なものにさせていた。

ショートカットと制服のイメージしかない真理に垢抜けた大人の色気を醸す高級クラブの稼ぎ頭を見る事はアキには不可能だった。

真理は時間をかけ一枚一枚じっくり見入っていた。

ギャラリストと顧客のどうでもいい身の上話に嫌気がさしタバコを押し消し、真剣な眼差しを作品に向ける真理の元に歩み寄る。

アキの気配に感づきあと数歩の所で突然振り向いた真理。

「おっ!」

一瞬たじろぎそれが誰なのか悟った。
「マリ・・・か?」
ロングヘアの真理に面食らっている。
「うん。」にっこり笑う。
「やっぱりアキだったんだね。高校中退して東京で画家になったって噂では聞いてたんだ。まさかと思って入ってみたら居るんだもん。」

真理は背伸びをして大きなキャンバスの上の部分、青と緑が複雑に絡み若干オレンジが覗くアキも好きな部分を凝視しながら言った。
「お前はこんな所で何してんの?」
「これからお仕事。銀座でね。」
「お水?」
「うん。」
口を少しとんがらせてうなづく。
ギャラリストの紺野が「お知り合い?」と声をかけてきた。
「あぁ、中学の同級生。偶然通りかかったらしい。」
こくりと真理は会釈をし微笑む。

「今は銀座のプレシャスで働いてるんです。アキは小学校のころから絵が得意だったけどまさかこんな立派なギャラリーで個展してるなんて。」
紺野はニタニタしながら

「あぁプレシャスね。私も昔よく行ったんだよ。偉い作家さん連れて接待兼ねてね。ママは元気?」
「えぇ、私もまだ働き始めてそんなに経たないけど良くしてもらってるわ。」
「アキ君、じゃぁ今晩プレシャスで一杯やっていこうか?作品売れてるし私もつよ!」
真理も紺野もアキを見た。
「・・・うん、構わないよ。」
真理はS50号ぐらいの作品の前に行き「私もこれ買っちゃおうかな。」とつぶやく。
S50号は一辺が120cm近くある正方形のキャンバスで、日本の平均的な住宅に飾るには少し大きいくらいであった。
「えっ、ほんとに?そんなにでかい絵飾れんのか?」

アキが訪ねる脇で紺野はニコニコしている。
「うん、ちょうど今壁が寂しいの。こう見えていいマンション住まいなのよ。」

真理は得意気に言い、
「アキ、良い感じに飾ってよ。」とくったくのない笑顔で言う。
「かまわねーけど、高いぜ。」
「この作品は確か・・・。少々お待ち下さい。」

紺野が事務所の方へ入っていく。
「アキ、覚えてる?中学で私と隣の席になった時、授業そっちのけで私の顔ノートに鉛筆で描いてくれたでしょ?」
「んな事あったっけ?いろんな奴描いてたからな。」
「すごく上手に描いてくれたのはいいんだけど、私の顔の後ろに死神みたいな怖ーい絵も一緒に描いたでしょ!?」
「だっけ?」

アキは笑った。
「そのあと何て言ったかアキ覚えてる?真理の後ろには死神が見えるんだって真顔で言うんだもん!」
一瞬の間をおき二人で笑った。
「そういやそんな事あったかもな。でもまだお前の後ろには死神が付いてるぜ!」

アキは真理の後ろを指差す。
「ちょっとぉ、怖いんですけど。やっぱり頭おかしいよね。」
紺野が事務所から戻ってきた。
「えぇこの作品はですね、82万円になります。プラチナ箔をふんだんに使ってるからちょっと値がはりますね。」
真理は驚く様子もなく

「分かりました。今持ち合わせてないから、契約だけしちゃいますね。」
「そうですか。ありがとうございます。支払いは振込みでも構いませんし、会期中にまた起こしいたらいても構いません。今週の土曜までやってますので。」
「分かりました。どうせ今週ずっと仕事だからまた寄ります。アキは毎日居るの?」
「起きれればいるよ。」

これが実に10年以上の時を経ての真理との再開だった。


3


耳の奥深くで何かが鳴っている。

徐々に徐々に大きくなりそれが電話の音である事が薄々わかってきた。

トゥルルルルというありきたりな着信音はアキのものじゃない。

それは目覚まし時計のように延々と鳴り止まない。

薄目を開け部屋を見る。

そこは純平の部屋。

アンティーク棚に綺麗に収められた大量の楽譜やら文庫本、「世界の名著」とやらが別冊まで合わせ全巻が所狭しと並んでる。

その上で着信音に合わせオレンジ色に点滅する子機の電話機が見える。
何時かわからずポケットから携帯を出すが充電切れなのか真っ暗なままだ。
「ふぅぅ。」鼻で大きく息を吐き、取り憑かれた霊能者のように重たい身体を上げる。

電話を無言で取る。
「アキか!?いつまで寝てんだよ!携帯繋がんねーしよ。」

純平がどやす。
アキは右目を手のひらでぐりぐりやっている。
「おはよ。」
「おはよ、じゃねーし。9時からリトモのBスタね。まだ間に合うだろ?」
「・・・皆いんの?」
「あぁ、皆揃い踏みだよ。再来週のレコーディングの打ち合わせもしたいって、ザザレコードの人達も来てるから。遅れんなよ。」
「あれさぁ、13pinのほうのシールドなんだけど、お前のほうの機材箱に入ってねーえ?

ないんだよ。」
「13ぴん?あれ無くしたらすぐ手に入んねーじゃん!昨日の楽屋に忘れてきたんじゃないの?ちょっと待っとけよ!」
アキは棚に置いてあるラッキーストライクに火を着ける。

左手に電話、口にタバコをくわえ冷蔵庫を開ける。

二人暮らしにしては馬鹿でかいファミリーサイズの冷蔵庫にはありとあらゆる飲み物が取り揃えてある。

硬水のミネラルウォーターを一瞬手に取るが、それをやめコロナを取る。くわえタバコで耳と肩に電話を挟め、両手で栓を抜く。
「ねーぞ。もう一回よく探してみろよ。一応リトモにもないか確認してみっから。」
「あぁ分かった。とりあえず9時ね。」
電話を切りカリモクのソファにどっしりと腰を沈める。

天井を仰ぎながらタバコを吸い、コロナを飲み干す。
約束の9時までにはまだ1時間ある。

バイクで10分もかからない。

昨日の吸い残しのマリファナに火を着けようとも考えたが、13pinシールドの事が気になりタバコを消し、探す事にした。
finite elemente製のスピーカーに向かいiPhoneを充電がてらDOCKに差し込む。

マイス・パレードのHereTodayが流れる。
再びタバコに火を着け散策。

純平の家はマンションの七階、2LDKでロフトが付いている。

リビングは25畳と広く、一部屋は寝室、一部屋は機材や楽器、Macのディスクトップが置かれ半スタジオと化していた。

ほとんどその部屋以外に機材を持ち出す事はないからアキはそこにあるはずだと確信していた。
自分の機材がぎっしり詰まった木製の箱をかき分け探す。

いつも使う物だから奥のほうにあるはずもないと、一通り見たがどこにもない。

引き出しやバック、机やソファの下も覗いたがどこにも見当たらない。

20分ほどくまなく探したが結局見つからず、「fack」と小さくつぶやき、リビングへと戻る。

腰に手を当て考えるがそろそろ準備して行く事にした。「まっいっか。」とギターとエフェクター一式を揃えメットをかぶる。
アキの使用するギターはゴダン製のガットギターで通常のギタリストとは全く異なる奏法をとっている。

通常エレキギターというものはシールドという配線でアンプと繋ぎピックアップという部分で拾った弦の振動を電子音として発音する。

ゴダン製のギターはピエゾピックアップというもので、圧電素子を利用し物理的な振動を直接信号に変えられるので、よくアコースティックギターなどに用いられる。

ピエゾピックアップのデメリットとして音がハウリングする事があるがゴダンはこれを極力抑える工夫をギターに施している。

そしてもう一つの大きな特徴はシールド差し込み口が二つあり一つは通常のギター音を出力し、もう一つは13pinの特殊なシールドを使用しRolandのギターシンセサイザーに繋ぐ事ができる。

こうする事で二種類の音を一度に出力する事が可能なのだ。

ギターシンセサイザーはその名の通りあらゆる音を出す事が可能で、ピアノやチェロにバイオリン、ストリングスや数百の効果音を作り出す。

これによりアキのバンド、リジンはスリーピースながらまるで百人編成の
オーケストラさながらになるのだ。

アキはリュックのようにギターバックを背負い、長さが80cmはあるアルミ製のエフェクターケースを持ち純平のマンションを出た。
ブロンズ色のビックスクーター、ジェンマにまたがり器用に股の間にエフェクターケースを挟み込む。

後部ボディにはTheCreatorOfのステッカーがさりげなく貼ってある。

首を2、3回こきこきやってエンジンをかけリトモへと向かった。

リトモはザザレコードが所有するライブハウスとスタジオを兼ね備えた施設で、ほとんどがプロのミュージシャン達が使用している。
「今回のフルアルバムはだいたい何曲ぐらいいけそうですか?コンセプトみたいなものとかありますか?」
リトモのフリースペースでは純平と絵里香、坂本がザザのレコーディング担当者と広報の女担当者と打ち合わせを始めていた。

大まかなアルバム編成とジャケット、ポスター等の打ち合わせだ。
自販機で買ったカップのコーヒーをすすりながら、分厚い黒縁眼鏡をかけた坊主頭のレコーディング担当者加藤はあれやこれやと沢山の書類をタバコの灰が散らかったテーブルの上へ並べていく。
リジンは今まで三枚のミニアルバムと二枚のコンピュレーションアルバムに参加し、いずれも好セールスを記録している。

ファーストミニアルバムは新人、一切歌の入らないインストとしては異例の、初登場でインディーズチャート一位を獲得し、CDがどの店でも売り切れという現象が「幻の一枚」という異名を付けてまわる事となった。
ライブは常にソールドアウト、破滅的で圧倒的パフォーマンスと常人離れした三人の高い演奏技術は他の追随を許さなかった。

結果、三枚のミニアルバムのトータルセールスは50万枚を超えていた。
ザザレコードはインディーズからメジャーまで幅広く扱う知る人ぞ知るレーベルだ。海外ミュージシャンも多数在籍し、日本のミュージックシーンを世界に発信する、音楽界では重要なファクターにあった。
リジンは三枚のミニアルバム発表の後、強いラブコールを受け破格の契約金とアキのワガママな条件を承諾させ移籍している。

「ポスターとかCDのデザインは全てアキに任せてるんです。」

純平はそう言いながら黒のアタッシュケースからアキが制作した様々なデザインを広げた。
「うわぁ!すごーい、めちゃくちゃカッコいいですね!!」

ベリーショートで目の釣り上がった少しパンキッシュな若い広報の女が黄色い声を上げる。
アキのデザインしたCDジャケットやブックレット、ポスター等の下描きは、手描きの物もあればCGで制作した物もある。

どれも非常に凝った作りだが、特に目を引くのはリジンのライブ時のワンショット。

これをパソコンへ取り込み、CG加工を施した後、その上からアキが手描きで更なる輪郭や色彩を加えた物だ。

ライブの熱気と興奮を損なわず、写真とCGと手描きが見事に一体となった素晴らしい出来のものだった。
加藤は目を見開きそれを手に取り
「これは凄いですね!これジャケットがいいんじゃないんですか?」
純平と坂本も同時にうなずき

「俺達もそう思ってた。それをジャケットとポスターに使おうって。」

タバコ片手に踏ん反り返って坂本が言う。
純平はこくりとうなずき、

「アルバムはアキの条件でもあったけど、二枚組にするという事。収録曲も計算したら一枚目は74分フルに収録する感じです。曲数的には10曲かな。俺達の曲って一曲一曲長いっすから。二枚目は一曲しか収録しないけど40分以上あるめちゃくちゃ長い曲。」
「えぇ伺っています。確かその長い曲ではオーケストラ使いたいとか?」
「そうです。それもアキの提案なので。」
「凄いですね。デビューアルバムが、二枚組だなんて。今までいなかったんじゃないんですか?」

広報の女は目をキラキラさせている。
「そうだね。デビューアルバムが二枚組ってのはちょっと珍しいね。それもこれも我が社のリジンに対する期待の表れなんだよ。」

腐ったJ-POPしか蔓延していなかった日本のミュージックシーンにザザのようなレーベルが勢力を拡大したのはリジンにとって有難いものだった。

ザザはあくまで作品主義で、「本物が最後に残る」が会社のモットーらしい。

これはある意味、アキの考えと通づる所があった。

加藤はリジンのライブを一度見てからというもの、彼らの魅力に取り憑かれた一人だ。

周囲を説得し、ザザへと導きその後も手厚いサポートをしている。
「ところでリジンって歌ものはやらないんですか?ミニアルバムの時から一貫してインストを貫いてますよね?モグワイとかアルバムリーフも最近ボーカルの曲とか増えたじゃないですか?」

広報女が知ったように問いだす。
「リジンの核はあくまでアキだ。そのアキがインストの曲しか書かない。それだけだよ。」

コーヒーを一口、二口飲み坂本が答える。
「いつかアキは言ってたよ。言葉は国によって違うけど音は万国共通だって。世界中の人々が共通して共感できるものが、言葉の先にある圧倒的な音なんだって。」

純平は少し笑みを浮かべ話した。
「ほんとはあいつものすごい詩の才能もあんだけど、それ音楽には持ち込まないんだ。あいつの書いた詩、集めたら辞書一冊分ぐらいになっちゃうんじゃないかな。」
「えぇぇ、見てみたい!何か凄いですね、アキさんって。」
「でも頭おかしいからあんまり関わらない方がいいですよ。ねぇ?」

普段のアキを知る絵里香が釘をさす。

アキを知った人、アキと話した人、アキに会った人。

そんな人達は少なからず彼に魅力を感じてしまう。

もちろんそれと比例するぐらいの多くの敵も作ってきたが。
天性の輝きのようなものは、強力な磁石のようであり、それは他人の人生までをも狂わしてしまいそうだ。

スタジオに入り純平と坂本がジャムセッションを始めた。

絵里香とザザレコードの二人も端っこで見ている。

スタジオの外にはいつの間にやら5、6人の人が集まり防音の分厚い窓越しに耳をたてて中を覗いてる。
純平の六弦ベースは特注のもので、2ハムバッカーにコントロール群は2vol と Tone、3バンドEQの計6つとなっている。

ボディには極上のウォルナット材を使用し美しい木目が目を引く。

センター部のラインには貝殻を細かな千鳥格子柄に施した模様が入っている。

そこだけ見るとまるで伝統工芸品のようだ。
BOSSのGT10Bマルチエフェクターとループステーション、それにElectro-HarmonixのベースシンセにSHIGEMORIやドイツ製ファズなど八個ものアナログエフェクターも使用する。

ループステーションは自分の弾いたフレーズを録音する事ができ、純平は低音のベースラインをループさせ、それに歪ませた一弦のハイポジションでまるでギターソロのようなものを重ね、到底一人のベーシストだけの音とは思えぬフレーズを次から次へと演奏する。

アキもループステーションを使用するのでリジンはリアルタイムの演奏をしてもCD等でバックミュージックを流していると、よく勘違いをされる。

この二人の多重録音がリジンに尋常じゃない程の分厚い音の層をもたらしていた。
純平の一糸纏わぬフィンガーピッキングはあまりにもメカニカルで、ずっと凝視してしまうと吐き気すら覚える。


坂本はいつも使用しているSONORのドラムではなくスタジオ備え付けのハリのないYAMAHAのドラムセットに若干やりづらさを感じながらも、ベースラインに合わせ変則の常に動き回るような手数で応戦する。

手は一度として一定のポジションに定まらないが、ツーバスとハイハットはしっかりと完璧なリズムをキープしている。

アキや純平がエフェクトにこだわり常に新しい音色を探し求める中、坂本の生々しく生命力に溢れた無添加のドラム音がリジンの太い太い軸になっていた。

純平と坂本、この二人の演奏だけでも他のバンドは圧倒されてしまうだろう。
加藤は身震いし全身に鳥肌をたてた。
演奏に熱が帯びてきた頃、タバコをくわえたアキが入ってきた。

絵里香が笑顔で手を振る。

アキは少し眉をあげ応える。

純平と坂本は一瞬そちらを見るが演奏を止めない。

アキも慣れた手付きでギターのセッティングを始めた。

ギターをショルダーから取り出し「あれっ?」と多少びっくりした表情をした

。13pinのシールドがショルダーの底の方にタバコとガンジャの灰にまみれ丸まって入っていた。

純平はそれに気付き笑っている。
「んだよ。」とつぶやき、そそくさとシールドを取り付ける。
まるで戦場のような怒涛のリズム隊にアキのアコースティックなギターの音が加わった。

若干ストリングスの混じったその叙情性のある音色で壮大なクラシックを思わせるフレーズは、雰囲気を180度変えそこにいた全員の心を揺さぶった。
所々でタッピングやハーモニクスをするぐらいで決して難しいフレーズを弾いているわけではない。

メロディのあまりの美しさに広報の女は目に涙を浮かべる。
曲が終わると外の連中も含め全員から自然と拍手が起こった。

アキは何食わぬ顔でチューニングをしている。
「凄い曲だね。なんていう曲?新曲?アルバムに入れようよ!!」

加藤が興奮気味に質問攻めをする。
「今の曲?適当だよ。ちょっとこんな感じのもやってみたかったんだ。」

アキはエフェクターをカチカチしながら答える。

加藤と広報の女はお互い感動した顔で見合わせる。

それをわき目で見た絵里香が笑っている。


「アキ、デモ持ってきたの?」

純平が尋ねる。
「あぁCDあるよ。」
デビューアルバムに収録する新曲はほとんど揃っていたが、10曲中の残り2曲がまだ未完であった。

リジンはアキがある程度用意したデモ曲にジャムセッションを交えながら始めのうちは曲作りを行う。

制作の過程でころころと曲調は変化し出来上がる頃には全く別の曲になっていた。

三人とも超が付く程の完璧主義者でレコーディングではプロデューサーやスタッフが先にバテてしまうくらい、休みなく眠らず制作は行われる。長期間、時間をたっぷり使いアルバムを作り上げるバンドもいるが、リジンは短期間に命を削るような集中力でバンドの爆発性と刹那のようなものを一つの曲に閉じ込める。
一度完璧に作り上げた楽曲をそれぞれが持ち帰りそれらを聴き込み、数日の時の中で最大限に集中力と緊張感を高め再び三人が集った時、ワンテイク録音が成され最終的には作り込んだものではなく、こちらのワンテイクの方がアルバムに収録される。

それはライブでこそ本領を発揮するリジンの美学であり、三人の人並み外れた技術と集中力があるからこそできる離れ業だった。
これからアキのデモCDを元に夜通し三人での制作活動が始まる。

ザザレコードの二人と絵里香は1時間程見学した後帰って行った。

 


4


「昨日ね、リジンのデビューアルバムの打ち合わせに少し顔出してきたの。」
絵里香は真理と夜から喫茶店で待ち合わせをしていた。

ティアラというこじんまりとした店で、外見は蔦で覆われ古びていたが決して不潔な感じはなく店内はアンティークの椅子や雑貨がセンス良く並べられていた。

フレスコでコーヒーを出し、小皿にナッツが付いてくるのが名物であった。

音楽好きなマスターがオールドからモダンまでジャズやフュージョンを流している。

壁には大きなジュリアン・シュナーベルの絵画のレプリカが飾ってあり、ブリキのコーヒーミルが3台、白い塗装のはげた鉄製の棚に飾られている。

閉店が夜中の12時と遅く、それらも気に入りいつも二人の待ち合わせはここだった。

アキと純平が出会ってから三年と数ヶ月。

それは真理と絵里香が出会い友情を深めていった月日でもある。
真理はアキの京橋の個展以来連絡を取るようになり、ごく自然と会う回数は増えていき一年が経つ頃にはアキが真理の元に転がり込み同棲を始めた。

先日アキが家を飛び出すまで二人は非常に親密な関係であったのは周囲もよく分かっていた。
難解なアキという破天荒な男に散々な目にあう事も多々あり、時には廃人と化した彼を介護や介抱にも似た行いをする事もあった。

それはリー・クラズナーがポロックにしてあげていたそれに似ている。

しかし真理はリーのように強気でぐいぐい引っ張って行くのではなく、一歩引いた所からおとなしく見守るのが常だった。
アキが出て行ってからはカラフルなアメ玉が全てなくなってしまった空っぽの大きな瓶のように真っ白で何もない日々が淡々と続いていた。

結局のところ真理は何があってもアキの事を深く深く愛していたし、彼女以上にアキを理解し力になった者はいない。

アキの残していった大量の絵画と詩の数々は真理の寂しさに拍車をかけるだけだった。

「そうなんだ。皆元気?」

ブラックを飲めない真理はコーヒーには必ずミルクとシロップを一個づつ入れるのがお決まりだった。

カップを両手に持ち少し下を向いている。

声と表情からはよく笑い明るい真理の元気さは感じられない。

アキの何気ない一言で髪は中学の頃のように短いショートヘアにしていた。
「うん、皆相変わらず。なんかねぇ、アキから色々とワガママ言ったみたいで、ザザレコード、かなりの気使ってすごい待遇の良さだったよ。新人にしては稀だって。」
絵里香は大きめの黒のパーカーにデニムのミニスカート、肩より少し長いサラサラなストレートの髪を真ん中で分けている。
「ごめんね。ずっと電話でなくて。」

真理が申し訳なさそうに下唇を少し噛む。
「うん。いいんだよ。今日こうして無事会えたから。とりあえず安心した。アキになに聞いても全然答えないし、真理も電話出ないからあんた殺したんでしょ!?って言ってあげたわよ!そしたらあいつお前を殺して俺も死ぬとか訳分からない事言い出して、その日買ったツモリチサトのワンピ食いちぎったのよ!信じられる?」
絵里香はタバコに火を付け笑った。
真理もフッと少し笑い
「相変わらずなのね。」
またうつむき
「やっぱり出て行ってからは絵里香の家に行ってたのね。」
「出てったのは一ヶ月前でしょ?うちに来たのは10日ぐらい前からよ。それまでずっとホテル暮しだって!贅沢よね!」
「ごめんね、迷惑かけちゃって。」
「ほんとよ!アキが来てから毎晩朝までドンチャン騒ぎなんだから!ビールを水代わりに飲むのよ。ワンピース食いちぎられるし。」
絵里香はタバコの灰を焼き物調の灰皿に落としながら笑って
「でもいいのよ。純平はなんか楽しそうだし。二人にも色々訳があるんでしょ?一生アキ抱えてくのはまっぴらごめんだけどね。」
二人して笑う。
昨日の事、バンドの事、何気ない普通の会話、そんな話しをしながら一時間が過ぎた。
「ところで何があったの、真理?」
絵里香が表情を変え真剣な面持ちで尋ねる。
真理は考え込んで沈黙の時間を作る。

時計は10時をまわり店内にはテーブル席の真理達とカウンターには白い髭を生やした初老の男が一人いるだけだ。

四つ角にあるBOSEのスピーカーからは初期のハービー・ハンコックが流れている。
「・・・私じゃダメなのかな。」
真理はそう言うと一気に瞳に涙を浮かばせる。
「真理がダメな訳ないじゃん。二年も一つ屋根の下暮らしてきたんでしょ?私だったら3日で無理だよ。はたから見たって真理の献身ぶりは表彰ものよ。喧嘩したの?何かされたの?」
真理は強く首を振り否定する。
「アキは何もしていない。きっと誰が悪いとかじゃないと思うの。もし誰かが悪いとしたら私なの。」
絵里香は困ったような表情で静かに耳を傾けている。
「どうしてだろうね・・・。最近アキが求めている事は私がしてあげたい事と食い違っているような気がするの。アキはいつも走っていて全速力で、私の知らない所で私の知らない事を知らないうちに凄いスピードで成し遂げちゃうの。私は一緒に暮らしているのに孤独を感じたり隣りに居るのに遠くへ行ってしまうような感覚があるの。私はアキの音楽聴いても絵を見ても小説読んでも、どれも素晴らしいと思うし凄いって思うけど、それ以上の事が何もないの。」真理の目からは一粒の涙が流れた。
絵里香は優しく応える。
「でもそれでいいんじゃないの?アキの芸術に私達が入り込めるはずなんてないんだから。純粋に凄いとか素晴らしいって真理に思ってもらっていたらアキはそれでいいと思うよ。」
「うん、初めはそうだったの。何も言わず付いて行こうって。だから私が変わってしまったのかも。アキが何かに打ち込んでいる時間を少しだけ私に向けて欲しかった。アキにとって何が1番であるか、それは私なりに理解していたつもり。それなのに私はアキがしなければならない事を邪魔しようとしちゃったんだ。アキが出て行ったあの日、実は将来の話しをしたの。」
「将来?結婚とか?」
「ううん、結婚の話しはしなかった。でも子供の話しをしたの。何気なく、何も考えずごく普通に将来は女の子が欲しいねって。ちょっと田舎に家を建てて伸び伸び子育てとかしてみたいねって。アキは少しお酒入ってて、なんか一気に不機嫌な感じになったのが分かった。私はちょっと気になりながらも、アキは男の子と女の子どっちがいいって尋ねたら。急に怒りだしたの。」

真理は両手を椅子とお尻の間に挟みうつむいた。
「えっ、それで怒って壁に穴空けたの?」

絵里香はため息をつき

「私達も最近よく将来の話ししたりするよ。もちろん純平も特殊な事やってるから、一般人の私なんかとはどっか感覚ズレてて喧嘩になる事もよくあるんだ。私の場合大抵ねじ伏せちゃうけどね。」
「アキにね、二年間も一緒にいて何一つ分かっていないって言われたの。ショックだった。すごくショックだった。だから私今までになくアキに反論したの。アキは私の事分かっているの?普通の女性としての幸せを願っちゃ駄目なのって。でもそれがいけなかったの。」
「全然いけなくないよ!一人の女性として女性らしいごく当たり前な幸せを望むのは自然でしょ?」
真理は涙を流し首を振る。
「今までアキにそれを求めなかったからきっと一緒に居てくれたの。私の所へ来てくれたの。アキの1番の理解者になろうと頑張ったけど無理だったんだね。」
絵里香はあまりにもアキを想い懸命に愛そうと愛されようとする真理を目の前にし、深く同情し真理と一緒に涙を流した。
もう周りに他の客はいず、マスターが奥の方でガチャガチャと片付けを始めた。二人は外へ出て駅の方へと歩いて行く。
「ありがとう、絵里香。元気でた。楽しかったよ。」

真理は少し目を腫らしながらもいつもの無垢な笑顔で歯を見せる。

タクシーに乗った真理に絵里香も笑って返し、手を振る。まだ肌寒い四月の夜だった。

 

 


5


アキ達はスタジオの外の通路に置かれたベンチに腰掛け、三人して休憩の一服をしていた。

時計は夜中の3時を指している。

坂本は上半身裸になり首には黒いタオルをぶら下げ、汗にまみれたタトゥーだらけの身体は光沢を放ち異形の生物にすら見える。

純平もTシャツを肩まで捲りペットボトルの水を首筋に当てている。

アキはぐったりと下を向いたまま静かにタバコを吸って、時たまブツブツ何かを言っていた。

髪の毛が下に垂れ影になり顔を伺う事はできない。
奥の方の廊下の電気は消され辺りにひと気はない。

自販機の機械音以外は異様なほど静まり返ったリトモは、三人の世界を創る為の手助けをしているようだ。
「一通りやったな。いい感じだと思うんだけど。特に最後の曲は綱渡りしてるみたいだった。今回のCDのハイライトになりそうだな。」

純平が水を飲みながら言う。
「あぁさすがに6日連続、8時間ぶっ通しは応えるな。改良の余地はまだまだあるけどとりあえずは全体像と出口が見えてきたか?あぁ?」

坂本が肘でアキの腕を押し様子を伺う。
アキは黙ってうつむいたままだ。


デビューアルバムのレコーディングを再来週に控えたリジンはその構想をほぼ完成させる所まできていた。

それは今まででもっとも良い状態であり、三人の心技も最高の状態であった。

純平はとてつもない作品が生まれる予感を感じずにはいられなかった。
実際レコーディングというものは一発勝負のライブとは違い、実に地味で地道な作業の繰り返しではある。

なんテイクも録り何重にも音を重ね、あれがいる、ここはいらない、ここを大きくあそこを小さく、と巨大なパズルを解くような難儀なのである。

特にリジンのような完璧主義者の集まりのようなバンドはレコーディング期間中はスタッフも含め全員が非常にナーバスになる。

あるミキシングのスタッフは結局完璧なCD作っても最後は一発録りをするんだから意味がないと発狂し抜けていった時もあった。


「レコーディングは再来週から始めるから。場所は前回と同じ新宿のゲインスタジオ。やり方はいつも通り、作り上げた音をCDにして一旦持ち帰る。そんで後日の一発どりね。二枚目に収録する40分以上ある大作はもう少しアキの方で構想練るらしい。まずは一枚目の10曲を先録っちゃうから。」

純平が坂本に向かい説明する。
「綱渡りか。」

アキがボソッとつぶやく。
「あん?」

坂本が反応する。
「今日の演奏は良かったよ。でもまだ命綱付けてんな。みんな。命綱付けての綱渡りなんて何がおもしれーんだ?俺達ならもっと高い場所で命綱なしで綱渡れるはずだろ。」

アキはタバコを押し消し水を飲み

「とりあえず今日からレコーディングまでの数週間はバンドの練習はしねー。別にお前らに演奏上でのリクエストなんてなんもねーしな。ただこの数週間の間に命綱捨ててきてくれよ。」
「また訳分かんねー事言ってるよ。」

坂本がうなだれる。
アキは純平と、坂本の演奏には絶対的な信頼を寄せていた。

実際彼らがアキの曲を演奏する時ほとんどアキは口を出さない。

こう弾いて欲しい、こう叩いて欲しい、いつでも二人はその通り、それ以上の事を成し遂げてくれる。

しかし精神性の面では難解な自論を展開し度々二人はついていけなくなる。

音楽だろうと絵画だろうとアキの芸術にとってもっとも優先するべきものはいつだって精神性や方向性だった。

逆を言えば精神性の欠落したものには無関心であり、時には怒りを覚えていた。

アキはテクニックに走り過ぎてエモーショナルな部分を失わないよう二人に釘を刺したのだ。
純平は思い出していた。

始めてリジンとしての曲をアキが作った時、

「この曲が完成したら死が待っている。」

と言っていた事を。

そして

「人間がもし電池で動いてるなら俺は一曲ごとに電池を使い切って何度も死んでいる。」

と言っていた事を。


「そうだな。もしかしたらまだ俺は命綱付けてたのかもな、アキ。このアルバム作ったら三人で死のうな。」
純平は笑顔でアキに手を差し出し握手を求めた。
「やだよっ。」

アキはふざけた顔をしてその手をはじく。
三人は声をあげ笑った。
「んじゃレコーディングまではそれぞれが士気を高める時間という事で。でも来週GAYAGAでライブだから三人での演奏はそれまで持ちきりね。セットリストは近々アキに決めてもらう。初めて人前でやる新曲もあるかもな。まぁ全てアキ様の気分次第って事で。」

純平は顔の汗をタオルで拭い、帰り支度をしトイレへ向かった。
「おい、もっと来いよ。」

アキはうつむいたまま坂本に言う。
「あぁ?何がだよ?」
「坂本、おめーそんなもんじゃねーだろ。俺と純平活かす為に抑えてねーか?」
「知ったような口きくなよバカ。俺までイッちゃったらこのバンドは何やってんだか分からなくなるだろ。」
「いや、違う。お前はあと一歩踏み込む事に躊躇してる。恐れてる。カオスを迎え入れられないようじゃいつまでもたっても三流だぞ。」
アキ以外の人間だったら殺人沙汰になるが、坂本は「フンッ。」と鼻で笑い暗闇の廊下に目を向けた。
三人はそれぞれの荷物を抱え表へ出る。

街は独特の夜露の匂いを漂わせ、たまに通る新聞配達のバイク音が異様に大きく聞こえる。

向こうの方では風に流された空き缶がカランカランと慌ただしいリズムを奏でている。
今日は純平のTYPE2に二人も乗ってきたので、坂本を送りアキは純平と共に家へ帰る事になっていた。

車に荷物を積んでいると「オイ。」と低い声が聞こえた。

振り返るとそこには先日アキを殴ったフル・レンチェのヒロがギターのハードケースを持って立っていた。
「やっぱり純平の車だったんだ。俺も今スタジオ帰りでたまたま通りかかったんだよ。
酒抜く為に歩いて帰るって言ってね。」
「うぃす。」

純平が軽く挨拶をする。
「おぉアキ!この前は悪かったな。俺もほとんど記憶なくてさ、後から話し聞いたらえらい事になってたみたいで。」

ヒロは苦笑いを浮かべながら左手を顔の前に立て謝った。
「いや、もういいよ。俺もめちゃくちゃ言ってたみたいだし、痛み分けって事で。」
「アキ、ちと話しあっからこれから一杯いかねーか?」
それを聞き坂本が睨みつける。
「だいじょぶだよ。なにもしねーって。さしでじっくりアキと話ししてーだけなんだ。なっ?」
「今からぁ?やってる店あんの?」

アキは渋い顔で乗り気ではない。

それを察した純平が

「ヒロさん俺らもうここ一週間スタジオ漬けでだいぶ疲れてるんっすよ。またの機会にどうっすか?」
「あぁマジかぁ。」

ヒロは少し寂しげな表情を見せた。

アキはそれを見てほんとに話しがあるんだなと思い、ちょっとだけならと承諾した。
純平は坂本を乗せ帰っていく。
「ハードケース重くね?」

歩きながらアキが尋ねた。
「あぁ、めっちゃ重い。でもこのギターにはそれだけの価値があっからな!」
「例のテレキャスね。」
アキが言うとヒロは満面の笑みをこぼす。

ゴリゴリのメタル系ギタリストのヒロだったが珍しいヴィンテージ物のギターには目がなく、このフェンダーのテレキャスターはなんせ世界に10本しかないという代物で百万単位の値段で買ってしまったとい。

通常ショーウィンドーにでも飾って眺める所だがヒロはレコーディング等でバリバリ使っているらしい。
歩いて3分もしないうちにファミレスが見えた。

「あそこでいい?」

ヒロは申し訳なさそうに言った。
「マジかよ。ファミレス?でも店なんてどこもやってねーよな。」

参った表情で周囲を見回すアキ。
「寒いし入っちまおうぜ。おごっからさ。」

実際それなりに名のあるバンドのリーダーとしてヒロもファミレスなど嫌だったがアキをあんまり連れ回せないと思い半ば強引に入っていった。
幸い店内の喫煙席には誰もいなく、やる気のない中年男の店員がおしぼりと水を持ってきた。
「酒飲む?」

ヒロがドリンクメニューを差し出してきた。
「ここで?いらねーし。コーヒーでいいよ。」
ヒロは笑い、コーヒーを二つ注文した。
二人はタバコに火をつけた。

ヒロはスリムのジーパンに紺色のだぼっとしたカーディガンを合わせ、中の白いTシャツにはイアン・カーティスのオカマのようなポーズの写真がプリントしてあり、その襟にはでっかい黒のサングラスがぶら下げてある。

金色の指輪を左手の小指にはめ、髪は短髪のモヒカンだがニットキャップを深く被っているので一見分からない。

背丈が190近くあり強面な顔は威圧感がある。

しかし実際は優しく態度も柔らかい。人望も厚く頭も良かった。


「この前はほんと悪かったな。血だらけだったんだって?」
「あぁジョン・ゾーンのTシャツ真っ赤だよ。ほとんど鼻血だけどね。俺も記憶ねーし、もういいよ。」
「あぁ悪かった。ザザからアルバム出すんだって?」
アキはこくりとうなずく。
「俺達も今セカンドアルバムに向けて動き出したとこよ。」


ヒロのバンド、フル・レンチェは5人組のプログレッシブ系メタルバンドだった。

メタルと言ってもハイトーンボーカルに早弾きといった80年代のメタルとは違い、ツインギターが変拍子のリフを複雑に絡ませ、日本人離れしたテクニックとグルーヴ、その構築美は類稀である。

ダイブや喧嘩ばかりで暴れまわるモッズ達もフル・レンチェのライブではあんぐり口を開け身動きがとれなくなる程の圧倒的音を聴かせる。

ヒロが普段愛用するギターはIbanezの7弦ギターを改造しサスティナーを内蔵している。

アームを多用し、確かなテクニックとオーダーメイドの特殊なエフェクターを使用しトリッキーで異常なほどヘヴィな音を出す。
英詩の曲も多く海外でのワンマンライブや有名フェスへの参加、日本公演を行うビッグミュージシャンのオープニングアクトも多く熟してきた。

KID IZOから純平が抜けた今、ロックバンドではフル・レンチェが実力、人気共に頭一つ抜きん出て、日本のロックシーンで頭角を表しつつあった。
「あれよ、アキは詩も書くんだろ。何でリジンで歌うたわねーの?お前の歌詞ならきっと皆ぶっ飛ぶぜ。」

ヒロはコーヒーにミルクを3つも入れている。

「お前の事殴っちまった時にお前に言われた事。後から改めて聞いて色々考えてたんだ。」

ヒロは少し笑みを浮かべながら言った。
「毎日のように自分の曲の事考えて、今までも色々やってきたけどよ、やっぱ音よりも詩って難しいな。」
アキはヒロがたっぷりとミルクを入れたコーヒーをスプーンでカラカラ混ぜているのをじっと見ている。
「音と詩を作る時、どっちが得意かなんて人それぞれだと思うよ。きちんと音作りできんのにつまらねー詩書いてる奴なんて山ほどいんじゃん。」

アキは呆れたように言う。
「そうだよな。でも俺もたまに思うんだ。詩人ぶって小難しい歌詞なんて書くけどよ、いつもピンとこなくて途中でまっいっかって妥協しちまう。メンバーはそれなりに褒めてくれるんだけどな。」
「音ってゆーのは自分でイメージしたものを楽器なりなんなりで納得するまでイメージに近づくように具現化してきゃいいけど、詩ってゆーのは言葉だから頭で描いたものが文字となって直結するじゃん。音って抽象的に見えるけど実際はそれ以上ないくらい絶対的なものだし、その反面詩ってすごく曖昧なものだよ。こんな両極端なものを俺はわざわざ音楽という括りで縛るつもりはないんだ。ヒロがピンとこないのはこの音楽と詩の間にあるジレンマみたいなもんなんじゃない?」
ヒロは真剣な面持ちでアキの言葉に耳を傾ける。
「まずは音楽に言葉を持ち込むならその必要性と存在意義みたいなもの見つけなきゃ、一生いい歌詞なんて書けないよ。ロックにこんな考え自体持ち込むのがナンセンスかもしれねーけど、俺は何も考えねーで物作れる程才能豊かじゃねーしね。」
「で、お前は歌詞書かねーの?必要性を感じてねーのか?」
「まぁそれも一つある。俺は純平と坂本の音だけで簡単に言葉なんてものを超越している感じがする。そして何よりも普遍的なものを創りたいってのが根本にあるんだ。」
「普遍的?」
「あぁ、何年経っても何十年経っても色褪せないもの。バッハとかベートーヴェンとか、コルトレーンにビル・エヴァンスみたいなね。流行り廃りじゃなくて。いつでも革新的でありたいと思うけど、それは実際古典を創るって事でもあるかもしれない。」

アキはコーヒーを飲み少し間を置き続ける。

「日本人で、しかもロックっていうジャンルでそれを成し遂げる為に、俺は今のスタンスが1番合ってるって確信している。」
こと音楽の話しになるとこんなにもアキはペラペラと話すのだとヒロは少し驚いていた。

普段は無口でぶっきら棒なアキなのに、その心の内に激しく燃え上がる炎のようなものを垣間見た。
キッチンの方ではやる気のないウェイターと、ケチャップのシミのようなものが付いたエプロンで手を拭く、若いバイトシェフの男が何やら笑い話しをしている。
「そういや最近リジンの音聴いてねーな。今度スタジオ呼んでくれよ。」
フル・レンチェとリジンはまだ駆け出しの頃よく一緒に演奏していだが、お互いCDが売れるようになってからは共演も少なくなった。
「きっとあの頃とは比べ物にならねーくらい進化してんだろーなぁ。」

ヒロは自分の吐いたタバコの煙を目で追いながら言った。
「来週の土曜にGAYAGAでライブだよ。それまで練習はしねーってさっき言ってきたから、音聴きてーならライブにでも来たら。」
「おっマジか。来週土曜ね。多分行けっと思う。遊び行くわ。」
二人は真夜中のファミレスで30分だけ話しタクシーに乗り帰って言った。

ヒロは殴った事と連れ出した事を最後まで悪かったと申し訳なさそうに謝った。

そして少しだけすっきりとした胸中は何だかドキドキと早い鼓動を打っていたのだ。

アンカー 1
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アンカー 3
アンカー 4
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6


アキが帰ると既に純平と絵里香は寝室で眠りに着いていた。
「・・・疲れた。」
アキはため息混じりに独り言を言う。

冷蔵庫を開け2リットルのペットボトルに入った水をそのままラッパ飲みする。

絵里香が何度注意してもこの飲み方をアキはやめない。

今となっては蓋の開いたペットボトルに絵里香は手を出さなくなっていたし、寝室に小さなワンドアの冷蔵庫を一つ購入すらしていた。

そこにはでかでかと「エリカ専用!」というマグネットが貼られている。
アキはソファで寝ていたり、ざこ寝したり、トイレや風呂場、果てはキッチンで寝ている事があり、純平と絵里香はまずアキがどこで寝ているか探す事が朝一の日課になっていた。

以前どこ探しても見当たらなかったので外泊していると思い、二人が夕方良い雰囲気で寝室のベットで事を始めようとした瞬間、ベット下から埃にまみれたアキが出てきた事もあった。

純平は大爆笑だったが絵里香は憤慨して、出てきたアキの後頭部を思いっきり踏み付け失神させたという。

この時も大量の鼻血を出したらしい。
更にアキは部屋のあちこちに何かを描いていて、例えばトイレの天井の換気扇に訳の分からない数式を書いたり、浴槽の蓋の裏にスプレーとアクリルで見た事のない文字を描いたり、リビングの端から端まで鉛筆で矢印を引きその長さを記入したりと純平の家では解読不可能なアキの痕跡が至る所で伺える。
絵里香は愚痴をこぼしながらも、結局の所こんなアキの奇行を寛大に受け止めていて、時にはちょっとした落書きや言動に心をくすぐられる事もあった。
今夜のアキはきちんとキャンバスへ向かうようだ。
時計は5時を指し、外は太陽を迎え入れる為の大地の儀式が始まろうとしていた。光が刺し闇を蹴散らす神聖な儀式を前に世界が緊張に包まれる。
アキは30本程の木炭を芯抜きしカッターで先端を鋭く尖らす。

麻の荒目で地塗りしていないF120号のキャンバスは、麻そのものの茶色がかった鈍い色をしていた。

これを縦に立て掛け、大きく息を吸い込むと、もの凄い早さで一気に描き始めた。

眼光は鋭さを増し、力の入った木炭の先がボロボロと崩れていく。

まるで魔物の群れに取り残され一人戦う勇者のように、その動きは激しく荒い息遣いへと変わっていく。

木炭は瞬く間に1本消化し、新たな木炭を取っては次から次へとキャンバスへと擦り込む。

30本全ての木炭を使い終える頃には画面が真っ黒くなっていた。

否、一見ただの黒い絵のように見えるが一本一本の線が形を作り、微妙な濃淡で立体感すら出ていた。

何か具象的な物を描いているわけではないが、まるで線全てが活き活きと生きているようであり、その線が形作った面は確かに「存在」していた。

アキはキャンバスの下に山積みとなった木炭の欠片を手にすると3メートルほど離れ、そこから勢いよく投げつけた。

小さな塊だった木炭の欠片は更に細かく砕け散り、キャンバスにはその一瞬の爆撃が刻印された。

柔らかな筆で描いた部分が動かぬように、細心の注意を払いながら木炭のクズをほろっていく。

必要以上に黒が強くなってしまった部分はガーゼで優しく拭き取り濃淡を調整していく。

フィキサチーフというスプレー式の定着剤をまだらに吹きかける。

続けて液体のフィキサチーフを全体に筆で塗っていくのだが、先程スプレーがかかっていない部分は液により若干木炭が動き、ごく僅かな滲みも出来、画面に動きが生じていた。

キャンバスの四隅はあえて塗り残され、麻の茶色と木炭の黒のコントラストが美しい。
アキが手を止める頃には夜が明けていた。

木炭の散乱した床の上にアキは倒れ込み泥のように眠りについた。


8時になると絵里香が起きてきた。

一瞬真っ黒のアキに驚くがキャンバスを見て木炭だと分かった。

丸くなり穏やかな寝息をたてるアキに「まったく。」と小さくささやくと微笑み毛布をかけた。
アキを起こさぬように慎重にホウキで木炭クズを掃除する。
絵里香はソファに腰掛けアキの作品をジッと見ている。
「すげーな。」

純平が起きてきた。
「早いのね。昨日も遅かったんでしょ?」
「3時過ぎかな。アキはヒロさんに捕まってもっと遅かったんじゃねーのかな?」
「もう少し寝てたら?」
「いや、だいじょぶだよ。それにしてもこいつ、朝方帰ってきてからこれ描いたのか?」
「そうだと思うよ。おととい沢山キャンバス張ってたから。」
アキが描いた作品は朝の光を浴びて、何重にも塗り重ねられた木炭が漆黒に輝く光沢を放っていた。

それはジャングルにいるような巨大な昆虫の背中のようだ。
アキは寝返りをうつ。
「寝てる顔だけは可愛いのにね。」
絵里香が言うと純平は笑った。
「俺もちょっとやる事あるからスタジオにいるわ。」
純平達は機材の置いてある部屋をスタジオと呼んでいた。
「うん、分かった。あんまり無理しないでね。後でコーヒーいれるから。」
純平は絵里香のおでこに軽くキスをしスタジオに入っていった。
「さてと。」

絵里香は立ち上がりキッチンでコーヒーメーカーに豆を入れエスプレッソを挽き、朝食の準備を始めた。


スタジオは12畳ほどの広さであったが宅録用のレコーディングミキサーや大小のアンプやスピーカー、ウッドベースやチェロまで置いてあるので実質動きがとれるのは半分ほどであった。

ましてや今はアキの分のギターや機材も置いてあるので、辺りは乱雑とし異様な程の音楽空間となっていた。
純平は昨日までリトモで演奏した三人の音を一から聴き直していた。

音源はパソコンへと取り込み無音の部分や話しをしている部分を取り除く軽い編集も同時に行った。

楽譜にそれぞれのパートを書き起こし色々とメモを取っている。

ヘッドホンをアンプに差し込みベースを構え、自分のベースラインが録音されたチャンネルを無音にしアキと坂本の音に新たなラインを乗せていく。

目をつむり神経を集中させ試行錯誤を繰り返す。

「もっと高く」

アキの言葉を思い出す。

耳に飛び込むアキのギターと坂本のドラム。

ハイになって行く感覚。考えるより前に指が縦横無尽にネックを滑る。

ここだ!ここだ!とフレーズを楽譜に書き込む。
絵里香は軽くノックをするとそっとスタジオに入り、エスプレッソのコーヒーと麦芽の茶色のサンドウィッチをドアの前に置き何も言わず出て行く。
純平は絵里香が入ってきた事にすら気づかない程集中しベースに打ち込んでいた。

1時間、2時間、指はミシン針のように強弱をつけながらただひたすら動く。休みなどない。

汗で長袖のシャツはびっしょりになっていた。

結局絵里香の朝食を食べたのは昼過ぎだった。

冷めたエスプレッソがやけに苦かった。


「ごちそうさん。」

純平は汗だくで空いた皿をリビングへ持ってきた。
アキは起きていてソファの上で膝を抱え座りながら、見た事もないハングル語がパッケージのスナック菓子を食べていた。
絵里香はメガネをかけパソコンに向かっている。
「あれ?今食べたの?お昼は?」

絵里香が問う。
「いや、いいよ。今食べたから。ちょっとシャワー浴びてくるわ。」

純平はキッチンに皿を置きアキの方を見て

「アキは?飯食ったの?」
アキはスナックのカスにまみれた指を舐めながら、テレビを見ている。
絵里香がすかさず、

「食べたよ~。サンドウィッチ4つも食べてカップラーメン食べてお菓子食べてるんだよ!食い過ぎじゃん?」
純平は笑う。
「何そのお菓子?」
純平が尋ねるとアキはパッケージの裏側にある読めない文字をマジマジと見ている。
「これ、昨日ヒロが帰り際にくれた。韓国でライブやったんだとさ。」
「マジで?何味?それ。」
「う~ん。なんだろね。とりあえず香辛料大量にぶっかけた感じ。」
「うまいの?」
「うん。クソまずい。」
絵里香が笑い
「ほんとまずいよ。ジュン食べてみて!」

絵里香は楽しそうに言う。
「やだよ、んなもん。」

純平がお菓子の袋を覗き込む。
「いやいや、クソまずいとか言って全部食ってんじゃん!」
「えっ!」

絵里香は驚きアキの元へ行く。
「うわっ、ほんとに食べたの?バカじゃん!」
「アホかっ。三日三晩食わずに重労働で腹減ってたんだよ。今の俺にはこんくらいの香辛料が必要なの。」

アキが言うと二人は笑った。
絵里香はパソコンに戻り純平は浴室へと向かった。
アキは汚れた指をズボンで拭きタバコに火を着ける。
外は気持ちの良い春晴れだった。


部屋が一瞬シーンと静寂した。

アキはいきなり服を脱ぎ始めた。

「ちょっと何なのよ!」

絵里香が驚く。
「風呂入ってくる。」
「えっ、純平と?二人で入んの?」
パンツだけのアキは「うん。」とうなずく。
「気持ちわるっ。」

絵里香の顔がこわばる。
「ちょっとそれは脱衣所で脱いでよ!」

その瞬間アキは絵里香の前でパンツも下ろした。

「ちょっとぉ、何なのこの人!ほんとやなんだけど!早く行けバカ!!」
アキはネズミ男のように忍び足でそそくさと風呂場へ行った。

絵里香はため息をつき、アキの食べた物と脱ぎっぱなしの服を片付けた。
浴室からはシャワーの音が聞こえる。

アキはなりふり構わずドアをいきなり開け、バスチェアーに座っている純平のシャワーを横取りする。
「ちょっ、何なんだよ!」

シャンプーの泡が落ちきっていない純平は目も開けられずキョロキョロしている。
「アキっ?バカ!返せよ!」
アキはシャワー圧を最大に上げ純平の頭に目掛ける。
「うぉぉー!!」

純平は肩をすくめ硬直する。
アキは笑い声を上げながらシャワーを上下させる。
「俺が落としてやんよ。」
「もういい!もういい!」

二人の騒ぎ声がリビングまで聞こえる。
純平がシャワーを取り返す。
「何なんだよ。いきなり入ってきてよー。」
「ほら、しゃぶれ!」

アキは純平の目の前に自分のモノをグッと差し出した。

純平はあまりにも目の前に出されものだからイスから転げ落ち、ラックのシャンプーやボディソープを勢いよく落とした。
脱衣所の洗濯機にちょうどアキの洗濯物を入れにきていた絵里香が、そのやかましい物音に浴室のドアを開ける。

アキは腰に手をあて体を沿っている。

純平は爆笑している。
「おいっ!お前がしゃぶれ!」

アキは絵里香に振り向いた。

その瞬間絵里香は目一杯のビンタをした。

純平が濡れた髪でハーフパンツを履き上半身裸で出てきた。

「あぁ、参った。」
絵里香は無反応にパソコン画面に向かいキーボードを忙しく打っている。
純平は冷蔵庫を開け缶ビールを手にする。
「来週土曜日ライブだったよね?」

絵里香は何事もなかったように尋ねる。
純平はビールを飲みながらコクリとうなずく。
「真理誘ってみよっかな。」
純平は腕で口を拭い
「どうだろうな。何かいつもの喧嘩と雰囲気違うしな。気まづくね。」
「でもいつまでもこのままじゃいけないでしょ?アキはともかく真理がかわいそうよ。」
「確かに。あいつも勢いで飛び出したものの、最近ぼーっとしてる事多いもんな。でも真理連れて来た所でどうすんのよ?」
「ううん。どうするってわけじゃない。ただ元気なアキを真理に見せてあげたいなって。真理もアキもお互いの顔見たらまた何か心境の変化あるかもしれないじゃん。このまま二人が終わっていくなんて悲し過ぎるよ。」
「真理来るかな?」
「多分すんなりとは来ないと思うけど、そこは任せといて!」
「アキには言わない方がいいか?」
「そうだね。私が無理やり連れて来たって事にしよ。」
ガチャっと浴室のドアが開く音がすると、絵里香は再びキーボードを打ち始め、純平はビールを一気に飲み干した。

 

 


7


GAYAGAの前には多くの若者が開演前のリジンのライブを今か今かと待っている。

4列に並んだ人の列は100メートル以上あった。

20時から2時間のワンマンライブでチケットは即完売。
立ち見で1500人は入るこのライブハウスは戦後ジャズバーとして立ちあがり、20年ほど前からライブハウスとしてリニューアルした。

JAZZのスピリットを引き継ぎながらもポストロックやエレクトロニカ、クラシックの現代音楽なども幅広く扱い、質と演奏技術の高いプロのミュージシャン達がライブを行う。

海外からのゲストも多く、レベルの高いハイクオリティなライブを堪能できる。

その反面二代目オーナーとなった菊地修也の目利きは厳しく、プロならば誰でもできるという場所ではなかった。

アーティスティックなインディーズのバンドの中にはGAYAGAでライブをする事を夢見る者も多い。
リジンは今やここでもっとも観客を集めるバンドの一つであり、他のアーティストにはない独特なオリジナルカラーは唯一無二な存在感を放っていた


楽屋では菊地とリジンの三人が話しをしている。
「今回で何回目かな?結構うちでやったよね?」
菊地は40代半ば、白髪混じりの短髪は全て逆立っていた。

髭を生やし携帯電話を首からぶら下げ、少し出た腹に乗っかっている。

ロサンゼルスに18年間滞在し、その間は向こうでライブハウスを経営し、本場仕込みの耳は非常に肥えていた。

初代のGAYAGAオーナー、いわゆる菊地の父の死を機に日本へ戻り現オーナーとなった。


「GAYAGAではもう5、6回やってるかな。今や常連ですね。」

純平が答える。
「今回は?どんな感じ?」
純平はアキの決めたセットリストを手渡し
「今回はデビューアルバムに入れる予定の新曲を何曲か。あとここで初めてやる曲も何曲かありますね。先週とおととい来た時に音響と照明の人には打ち合わせしてあります。音源渡してありますし。菊地さんいなかったですよね?」
「そうそう、僕はジェイ・リッシュとホテルで打ち合わせだったんだ。」
「マジっすか!リッシュGAYAGA出るの?」
「うん、出たいって向こうからの申し出だったんだ。うちはもう日本じゃ老舗のジャズハウスでもあるからね。」
「いつ?」

坂本が聞く。
「再来週の土曜。ちょっと急なんだけどね。」
「リッシュのテナーサックス聴きてーな。」

純平が坂本に目をやる。
「だってあいつ幾つよ?あそこまでいくともう伝説だよな。」
「68歳らしいよ。」

菊地がニッコリして言う。
「そっか、今日は新曲やるんだね。リハこれから?じっくり見させてもらうよ。頑張ってね。」
菊地はバイブのなった携帯を手に取りながら楽屋を出て行った。
「うっしゃ!んじゃ軽く音合わせすっか。」

純平がタバコの火を消して立ち上がり楽屋を出ると二人も続いた。

「ゲッ!すごい人。皆何時から並んでんだろ。」
絵里香はスターバックスのホットラテを片手に真理と二人でライブ会場に到着した。
「久しぶりね、リジンのライブ。真理はほとんどライブ来ないもんね?」
真理はキョロキョロしている。
「ほんとにだいじょぶかなぁ。勝手に見にきたりして。」
「だいじょぶに決まってんじゃん。悪い事してるわけじゃないし。それにあんまり前のほう行かなきゃ分かるはずないって。」
真理はコバルトブルーのストールに口元まで顔をうずめている。
「ははは、だいじょぶよ、そんな隠れなくたって。」
「だってぇ。」
「終わったら楽屋行こうね。」
「えぇ!」

真理は目を見開き驚く。
「だって会いに行かなきゃ今日来た意味ないでしょ?」
真理はぶるぶると無言で首を振る。
「まぁとりあえず今はライブを楽しむ事だけ考えよ。お酒も飲んじゃおっかな。」

絵里香は背伸びして入り口付近に目をやりながら鼻歌混じりでご機嫌だった。
「あれ?エリカじゃん?」
振り返るとモヒカン頭にサングラスをかけたヒロが声をかけてきた。
ヒロは一種独特なオーラを放っていた。

彫りが深く欧米的な顔立ちでモヒカンも大きなサングラスもよく様になっている。
「あぁ!ヒロさん!こんばんわ。今日来たの?」
周囲がざわめき始める。
「うん、久しぶりにリジン見たくなってね。亮太と金谷連れて来た。どんなもんだかお手並み拝見ってとこよ。」
ヒロはフル・レンチェのボーカル、鹿嶋亮太と音楽プロデューサーの金谷を連れて来ていた。
「ヒロさん、その頭じゃバレバレじゃん!少しぐらい変装したら。」

絵里香が笑いながら言う。
「構わねーよ。どうせ俺らはVIP待遇で裏口から入るし。」
「えぇー、ずるーい。」
「絵里香も一緒に来いよ。わざわざ並んでねーで。そもそも何で並んでんだよ?」
「あっ、うちらはいいんだ。ねっ?」

絵里香が真理に問いだす。
「あっ、あっ、うん。」

真理は挙動不審に答える。
「えっ?誰その子?絵里香のお友達?」

ヒロが覗き込むように見る。

真理はずっと絵里香の影にいる。
「あれ?もしかしてアキの彼女?前一回だけあったよね?髪切ってたから気づかなかったよ。」
真理は少し引きつった笑顔で会釈する。
「はいはい、もういいっしょ?人だかりになる前に行った方がいいよ。」
「んだよ。しゃーねーな。んじゃ終わったら打ち上げこいよ。」

ヒロは手を振る。

「バイバイえりちゃん。」
先に行ってしまった亮太と金谷を追いかけようとしたが、すぐに声をかけられ握手を求められ携帯で撮られたりしていた。
「あーあ、捕まっちゃった。」

真理が言う。
「だから早く行けって言ったのに!」

絵里香はそっぽを向いている。
そうしているうちに入口が開き先頭の客からぞろぞろと流れ込むようにGAYAGAへ入っていく。
「あっ、開いたよ。」

真理が背伸びし入口に目をやりながら絵里香の袖を引っ張る。

絵里香は入ってすぐにカウンターでビールを注文していた。
「真理は?何飲むの?」
「うーん、私とりあえずいいわ。」
真理はドリンクを持ちながらライブを見るのは煩わしいと思った。
中に入るとお香が焚かれサイケな匂いがする。

リジンの「信者」と呼ばれる熱狂的なファン群が前方に陣取り、すでにかなりの興奮状態にあった。

オォオオ、オォオオ、オオ、オオ、オォオオ

まるでアマゾンの奥地にいる部族の歌のような合唱が会場内をこだまする。

それはリジンの登場を急かすようであり、召喚するようにも聞こえる。

悲鳴に近い雄叫びがあちらこちらから響き耳をつんざく。
「凄い熱気ね。」
絵里香はビール片手に会場角の隅に寄り掛かる。
「ほんとね。何かずっと前に見た時と雰囲気が全然違う。」
「危ない宗教みたいじゃん。」

絵里香が笑っている。
「こんな騒ぎでちゃんと音聞こえるかな?」
真理は直立してステージをずっと眺めている。

時計は8時を過ぎ客席のライトが全て消えた。

その瞬間怒濤の怒号が飛びかった。

真理は一瞬ビクッとし、その後全身に鳥肌が立つのが分かった。
暗闇の中で非常口の灯りだけが、この場が現実なのだと知る術だった。
オォオオという合唱がより大きくなり会場の緊張と興奮がピークに差し掛かった時、純平と坂本がステージに現れた。

坂本は既に上半身裸で髪を細いカチューシャで捲り上げている。
ドンドンドンドンとバスドラを鳴らす。

純平もバキバキと弦を叩いている。
とてつもない歓声が今度は「アキ、アキ!」という大合唱に変わった。


アキが登場した。
鋭い眼光で観客達を睨みつける。

信者達は両拳を天に掲げ怒号を飛ばす。
アキはステージのギリギリ前まで行き静かに会場を見回している。

より一層歓声が大きくなる。
「始まる前からすげー熱気だな。」

ヒロ達は会場中間の壁際で見ていた。
「リジンのファンは熱いよ。」

亮太が笑いながら言う。

アキは佇んだまま数分客席を凝視していた。
客に背を向けアンプの前に立て掛けられたギターを手に取る。
浅い呼吸をし何の前触れもなくファズで歪ませたギターのリフを突如奏でる。

ハードロックに使われそうなレスポールにディストーションをかけたようなその音は、とてもナイロン弦を使用したガットギターの音とは思えない。

デビューアルバムに収録される新曲だ。

初期のレッド・ツェペリンを思わせる王道の単音リフはロックミュージックの真骨頂であり、一度聴いたら耳から離れない。

ただただ「カッコいい」のである。
この単音リフから徐々に手数が増えカッティングを交えた複雑な和音フレーズへと変わっていく。

純平のベースはボリュームペダルを使い、いつの間にかフェードインしている。

坂本はうつむいて軽く頭を揺らしている。

純平のベース音量が正常値にまで上がり、アキのフレーズが変わった瞬間、坂本は目にも留まらぬ早さでフィルインを乱舞した。

今初めて叩かれたにも関わらず、ドラムの音数は既にクライマックスさながらだ。

三位一体となった音はまるで大蛇の如く観客達の鼓膜をつたい脳神経を締め上げる。
アキと純平がループステーションを二人して使い始めると音は幾層にも重なりループし人々は無限の宇宙へと誘われる。

大所帯のバンドなんかよりも遥かに多い音の数と、一音一音のクオリティの高さ。

ステージには確かに三人しかいない。

三人の音以外の音源は一切使用していない。


ヒロは鋭いショックを受けている。

自分の知っているリジンとはあまりにもかけ離れていたからだ。

それと単純に今演奏されている楽曲の凄さに身震いしているのである。


「リジンの音楽の特徴はこの音の流動性だな。」

音楽プロデューサーの金谷が亮太の耳元で言う。
それは小節毎に規則正しく区切られる従来のロック、ポップミュージックなんかとは違い、かといってフリージャズ程奔放過ぎるわけでもなく、ごく自然な流れで気付けばメロディラインや拍子がいつの間にか変化しているのである。

これはミニマルミュージックに影響を受け精通してきたアキが、リジンの音にもたらしたものである。
「見て下さいよ、まだ始まって10分も経たないのに前の連中トリップしてるよ。」
亮太は笑っている。
「確かにこの無限ループは半端じゃないね。」
金谷は苦笑いで答える。
「あぁ。アキも純平もすげーけど、坂本見ろよ。あいつの手数。なのに一寸たりとも狂わねー。これだけ混沌とした音塊の中で屈強な土台を築いてんのは坂本だよ。」
ヒロは目を細めて首をかしげながら言う。
「一年前に見た時は一人一人のポテンシャルは群を抜いてたけど、バンドとしてのまとまりにはまだ欠けていた。でも今は駆け引き、掛け合いがすごく機能してる。」
ヒロはビールを飲み干す。
「ったく。ついこの間まで自己チューの集まりがやりたい放題だったのに何がどう変わったんだか。」
「ハハハ、そうそう。クリームみたいに喧嘩のようなジャムバンドだったのにね。」
亮太はずっと笑っていたが心中穏やかではなかった。

時折怖いくらいの眼差しでステージに目を向けていた。

そしてライブが始まり30分も過ぎた頃にはヒロ達は誰も口を開かなくなっていた。

その会場の誰一人として無駄口を叩く者はいなくなり、演奏中は全員が蝋人形のようにただただステージを凝視するだけだった。

リジンの音世界に圧倒され屈服しているのだ。
「この前アキの言ってた、音は言葉を超えるってこういう事だったのか。」
ヒロは独り言のようにぼそりと言った。
「なんか俺もういられねぇ。帰るわ。」

ヒロは金谷の肩をギュッと握り会場を出ていった。

金谷と亮太は目を合わせ苦笑いを浮かべた。
「ショックだったのかな?」

亮太が言う。
「どうだろうな。あいつが落ち込むって事はまずないけど、ジッとしていられなくなっちゃったんだよ。音を作る者としてね。いい刺激になったんじゃん?」
金谷が答える。
亮太はため息をつくと頭を掻いた。
ライブも一時間を過ぎ更に熱を帯びる中、後半へと突入していく。


8


「すごいね。」

絵里香は言うが真理は何も答えない。

一曲一曲終わる毎に鼓膜が張り裂けそうな位の歓声がおきる。
「ありがとう。」

純平がスタンドマイクに言う。

坂本はタバコに火を着ける。

リジンはほとんどMCを入れない。

毎回ライブ中に一回か二回純平が話すぐらいだ。
「今回のライブはデビューアルバムに収録されるであろう新曲をいくつかやってる。次やる曲もそう。三人で命削って作った曲。」

水を飲み一息つく。

「聴いてくれ。」
その曲はアキの若干リヴァーブのかかったアルペジオから始まった。

右手の五本指全てを使い非常に早く繊細なアルペジオだ。

ピッチをだいぶ上げてるのでまるでマンドリンのような音色。

純平がエコーをかけたタッピングでギターとベース音が複雑に絡み合う。

坂本のドラムは始めからブラストビートをモーラーにて奏でている。

しかもハーフタイムシャッフルなのでとても人間技とは思えない。

テンポは軽く200を超えていた。

アキと純平の柔らかな音のせいか、不思議とうるささは感じられない。

純平がBOSSのスライサーを使い始めるとテクノビートの様な電子音が、坂本の生のビートと混ざり合い、もうそれはカオス以外の何物でもなかった。

そしてこの曲の最大の見せ場はアキの五分にも及ぶ壮大なギターソロだった。

10秒間の長いサスティンのかかった3弦12フレットのビブラートから始まり、エモーショナルなメロディラインへと移り行く。

バックで鳴っているリズムセクションは相変わらず忙しく混沌としたリズムを刻むが、アキのタッピングハーモニクスとスウィープを多用したメロディはその見た目とは裏腹にとても穏やかに流れてる。

それは地獄と化した戦場に舞い降りた神々しい光の渦のようだ。

観客達は皆その光に救いを求めようと目に涙を浮かべる。

真理は強く下唇を噛みボロボロと泣いている。

その真理の頭を抱え肩へと抱き寄せた絵里香もまた大粒の涙を流してた。

前方のほうでは脱力しへたり込む者が何人かいた。

亮太はその場にしゃがみ込んだ。

失神し外へと連れ出される者もいた。

アキのソロが佳境へと入り三人はオーガニズムへと突き進む。

ステージはハイライトを迎えていた。

燃えている。

ステージが光々と燃えている。

「凄まじい事になってるな。」

二階の照明室の小窓から覗いてた菊地が眉間にシワを寄せながら言う。
「俺鳥肌立ちっぱなしです。」

照明の若い男のスタッフが声を震わす。
「私も10年前なら泣いてたかもな。」

菊地がフッと笑う。
「彼等は紛れもなく世界で通用するロックバンドだ。しかもトップクラスでね。いずれ日本のロック界にとって宝となるかもな。」
菊地はぐっと背伸びをし首をコキコキいわす。
「私も頑張らないとね。」

左手で右肩を揉みながら照明室を出て行った。
菊地は考えていた。

リジンをアメリカに連れて行く事を。

そんな事を考えたのは長いオーナー生活初めての事だった。

いや、今まで菊地にそこまで思わせたアーティストが現れなかったと言うべきか。

何事でも世界レベルになるには尋常ではないポテンシャルを必要とするし、飛び抜けた運や才能、唯一無二な技術力は必須である。

菊地は星の数ほどバンドを見てきてリジンほど三拍子も四拍子も揃った日本のバンドには出会った事がなかった。

自分が音楽に携わり続け最後に何か大仕事をしたいという欲求がリジンの音に触れる度大きくなっていった。

リジンが最後の曲を終えた。

時計はピッタリ22時を指している。

アキは一人そそくさとステージから掃けた。

それに続き坂本も振り向きもせず去っていく。

純平は一人残り大歓声に片手を上げ応える。

頭の上で手を3、4回叩くとステージを後にした。
鳴り止まない歓声がいつまでもこだまする。

それは15分もの間続いた。

リジンは滅多にアンコールをやらない。

しかし今日の観客はついていた。
純平がベースを掲げ再びステージに現れたのだ。
「今日はアキの機嫌がいいからあと一曲できそうだ。」

純平は笑みを浮かべマイクに言う。
ベースを構えアンコールは純平のソロから始まった。

エフェクターは使用していない。

KID IZOの時代からトリッキーなプレイと濃密な音作りに定評があった純平だが、実際クラシック仕込みの基礎は非常に論理的でテクニカル、リズムやフレーズには微塵の狂いもない。
高速スラップの合間合間に和音フレーズを挟みブレークさせる。

連続のスウィープピッキングは美しくクラシカル。1弦から3弦でのスウィープだけではなく4弦から6弦までフルに弦を使用している。

にも関わらず指がもつれる事は一切ない。

スウィープピッキングとは元々ギターにおける高難易度なテクニックの一つであるが、それをギターの弦より何倍も太く硬いベースの弦で行うのは、常人であればたちまち指がつり手首の腱鞘炎を起こす。

ましてや純平のベースは6弦ベースなのだ。
「多分日本であんな事できんのは純平一人だろうな。まるでギターのように弾きやがる。」
金谷が亮太に目をやる。
「あぁ。Mr.Bigに入れんじゃねーの。ハハッ。」
純平は最後に1フレットから20フレットまで物凄い早さでスライドを繰り返す。

しかも同時に二本の弦を押さえハモらさせている。
「おいおい、マジかよ!」

亮太がおののく。
「あんな事したら指燃えちまうだろ。」

顔は引きつっている。
「あんなに太いベースの弦上をあんな早さでスライドできるって事は、尋常じゃない鍛え方だよ。」

金谷の顔も強張っている。
純平はジャズギターのような複雑なポジショニングとコード進行でソロの最後を締めくくり、終えると瞬く間に大歓声が起きた。

その歓声と拍手は一人の天才ベーシストを心から称賛するものであった。

全員が本気で拍手をしていた。ピィーという指笛があちらこちらから飛び交う。
絵里香は顔をグシャグシャにして泣いている。
坂本が拍手をしながらステージに現れた。

続いてくわえタバコのアキもズボンをゴシゴシと上げながら現れた。


「ありがとう。皆。最後の曲はほんと俺達にしては珍しいんだけどカヴァー曲なんだ。誰でも知ってる曲。いっつもスタジオでお遊びでやってたんだけど、毎回やってるうちにめちゃくちゃクオリティ上がっちゃったんだよね。そのうち原曲の面影すらなくなっちゃったんだけど、今日はちゃんと分かるようにやるね。人前でやんのは最初で最後だと思うよ。」
オォーという歓声が上がる。
カウントも取らず急に三人同時に奏でたその音は、キング・クリムゾンの「21世紀の精神障害者」だった。
ギンギンに尖らせたアキのリフはオルタナティブピッキングとトリルを組み合わせヘヴィに仕上げている。

所々ワーミーペダルを操りかなりトリッキーな動きを見せる。

坂本のドラムに関しては一切原曲無視で、とにかくその小節小節で詰め込めるだけ詰め込んでいる。純平はワウペダルを踏みながらベース音でボーカル部分を弾きこなす。

あの有名な間奏部分もリジンらしいアレンジがなされループステーションとスライサーを多用し、ロバート・フリップが3、4人居るようだ。
ギター、ベースとドラムの掛け合い部分やブレーク部分は、混沌とした音塊の中でもしっかりと決めてくる。
10分にも及ぶ演奏が終わった。

観客達は満足そうに全員が目を輝やせ頭上で大きく手を叩く。

純平が四方に向け手を振ると三人はステージを後にした。

観客席の明かりが点くと全員が現実に戻され、皆ざわざわと出口へ向かった。
「楽屋行くか?」金谷が尋ねる。
「うーん、ヒロさん帰っちゃったけど例の物差し入れしないとね。久しぶりに菊地さんにも挨拶したいし。」

 


9


楽屋ではリジンの三人がそれぞれ別のソファや椅子に腰掛けタバコを吸いながら既に2、3本ビールを空けていた。

そこには途中からライブを見に来たというザザ・レコードの加藤が会社の人間を3人連れて来ている。

リジンのマネージメントやレコーディング、ライブ等に関わる者達のようだ。
「お疲れ様です!凄かったです!!」

興奮冷めやらぬ加藤は鼻息荒く汗まみれだ。
「加藤さんも飲みなよ。」

純平がバドワイザーを差し出す。
「いえいえ、とんでもありません!今日は新たなスタッフの紹介にお邪魔しただけなので。この後本社に戻りライブのレポートもありますし。」

加藤はアゴから汗を垂らしながらスタッフの紹介を始めようとした。
「かてー事言うなよー!」

亮太が一升瓶片手に金谷を連れ入ってきた。
「あーー!レンチェの亮太さん、いらしてたんですか?それに金谷さんまで。これは豪華豪華。」

そう言いながら加藤はあたふたしている。
「いやいや楽屋が大所帯だな~。」

菊地が満面の笑みで入ってきた。
「おぉー、役者が全員揃ったねー!」

亮太が一升瓶を頭上に掲げ大声で言う。
「あっ、獺祭じゃーねーか!!飲もーぜ飲もーぜ!」

アキがタバコを揉み消し立ち上がる。
「菊地さん、皆連れて一杯行きません?皆も行こうぜ?」

純平はそう言うと人数を数え始める。
「そうだね。ザザの方々も自己紹介はそこで、皆さんでどうですか?」

菊地が加藤に言う。
「はぁぁそーですか~。」加藤はスタッフに目をやるなり若い男のスタッフが「行きましょう!行きましょう!こんな豪華なメンツ凄いですよ!」

と目を輝かせて加藤に訴える。
「う~ん……分かった。今日は君達とリジンの初対面を祝す意味でもパァーっと行きますか!?」
「んじゃ決まりだね。行くべ行くべ~。」

純平は上半身の汗を今一度拭いて濃い緑色のフランネルシャツを着る。
坂本は亮太と金谷と軽くハグすると肩を組んで出ていく。

それに続き全員がぞろぞろと一階の裏口へと降りて行った。

その頃真理と絵里香は人のはけたロビーでなにやら話しをしている。
「ねぇやっぱり今日は帰ろ。」

真理は困った表情で絵里香に訴える。
「楽屋にちょっと顔出すだけだから。いっかい純平に会ってアキに真理が来てる事伝えてもらうから。それとも真理、このまま一生アキと会わないつもり?もうお互い思う事があるんだからきちんと話ししなきゃ。ねっ。」
絵里香はさとすが真理はうつむいている。
「とりあえず純平に電話するからね。」
絵里香は携帯を取りだし履歴にある「純平」を押した。
「ちょちょっと待って!」

真理は慌てて絵里香の携帯を持った手を引く。
その時、ロビー奥の裏口脇の階段からざわざわと人の声が聞こえてきた。
坂本、金谷、亮太が談笑しながら降りてくると次々と人が降りてくるが真理と絵里香には気付いていない。
「純平!!」

絵里香が大きな声で呼びかけた。
全員が一斉にこっちを向く。
真理は背を向けうつむく。
「んだよ、早く行けよ!」

アキの声が階段の上から聞こえた。
真理の胸の鼓動が一瞬強くなる。
「あぁあぁ……えーっと。」

純平がキョロキョロ見渡し

「ちょっと先行っててくれ。俺とアキは後から行くから。」
純平は裏口のドアを開け皆を誘導する。
「おい、行こーぜ。」

坂本が言うと全員が外へと出ていった。
アキは階段の上から不思議そうな顔でそれらを眺めてる。
「なんなの?」

純平に問いただす。
「いいから降りてこいよ。」
「行こ。」

絵里香は真理の手を引き純平の元へ向かった。
アキは階段から降りると絵里香と真理がこちらへ来るのが見え、純平を睨んだ。
「おい、ちゃんと話せよ。」

純平は一歩前へとアキの背中を押す。
「アキーお疲れー。ライブちょー良かったよ!今日はね私が無理やりね真理も連れてきたの。」
真理は絵里香の背中に隠れうつむいたままだ。
「アキ。お互いちゃんと話ししてみない?」

絵里香は少し首を傾けアキの目を見る。
アキは真理に目を向けたまま黙っている。
「俺達は行くから。ゆっくり話ししろよ。」
絵里香は真理に振り向き

「ねっ、私達行くから。ねっ。」
「絵里香、お願いいて。」

真理はか細い声でささやく。
「ダメよ。私達が入り込むような話しじゃないでしょ?できるね?」
「おい行くぞ。」

純平が絵里香を呼びよせ二人も裏口から出ていった。

「ごめん。急に会いにきて。」
アキはタバコを取りだし火を着ける。
「あっち行こうぜ。」

タバコでロビーのソファーを指す。
二人は長テーブルを挟み向き合った形でソファーに座ると長い沈黙となった。
アキはタバコを消し、立ち上がると自販機に向かいカップのコーヒーを2つ買ってきた。
真理の前にコーヒーを置く。

ぽとぽとっとミルクとシロップを一個づつ置いた。
それを見た瞬間真理は我慢できず一気に涙を目に蓄えた。
こぼれ落ちぬよう必死でこらえる。
真理がブラックを飲めない事、コーヒーには必ずミルクとシロップを一個づつ入れる事をアキが覚えていたという、この上なく些細な事。

しかしそれは真理に二人過ごした二年間が嘘や幻ではなかった事を思い起こさせるには十分だった。
「ありがとう。」

真理は普通に言ったつもりだったが、声は震えてる。
アキはその声に反応し顔を上げ真理を見た。
その瞬間、真理の瞳からは大粒の涙が一つこぼれた。
「私ね、私ね……。」
次にこぼれるであろう涙をこらえる事に必死で、言葉は失われていく。
真理は眼球の半分が水中に沈んだ感覚に戸惑い肩をすくめる。
「お前は俺といないほうがいいよ。」
消したはずのタバコが小さな火種でかすかにまだ煙を上げている。
「俺は俺が俺らしくいる為には手段を選ばない。」
真理はテーブルの上のコーヒーを両手で包み、まるで他人事のように優雅に昇る湯気をじっと見つめてる。
「二年間俺といてお前も気付いたろ。二人の価値観の違いと俺の住む世界の異質さを。」
アキは裏口に目をやりながら片肘をソファーに預け足を組んでいる。
「お前が望むような将来や幸せを叶える事は俺には出来ないんだ。俺にとって自分の進む道にある障害ならいかなるものでも退くつもり。それが真理でもな。」
「私は障害?」
真理はアキを見つめる。
「さあな。もしかしたら俺にとって全ての人間が障害のような気すらする。特定の誰かと一生なんてのはそもそも無理な話しだったんだよ。」

GAYAGAは物音一つしない静寂。
「ただ……。二年間だよな。」
アキは遠くを一点見つめし独り言のように呟く。
「私もね。正直な事を言うと、二人の住む世界って違うんだろうなぁって何となく感じてた。でもね……。」
「でもね好きっていう気持ちってどうしようもなくて、世界が違くても不釣り合いでも突き放されても好きっていう気持ち……。」
「どうしようもなくて。」
真理は少し声を張り上げ涙は3つ4つと流れた。
「私はアキが好き。ずっと。今までも。ずっと好き。でも、だから、好きだから分からなくなっちゃったの。アキの側にいたほうがいいのか、側にいないほうがいいのか。もう分からなくなっちゃったの。」
真理はアキにとっての愛とはなんなのか、それが分からなくなっていた。

アキの事だけしか考えられなくなってしまった事が逆に自分を見失う結果となっていた。
そしてアキ自身も真理を想う気持ちとは裏腹に、彼女とい続ける事が正しい選択なのか自問自答を繰り返すこの数ヵ月だった。

「真理。俺もお前が好きだ。でも今日はもう終わりにしよう。まだお互い答えが曖昧なままだ。もう少し時間をくれ。次は俺から会いに行くから。」
アキはタバコに火を付け立ち上がり出口の方へ歩いていく。
真理もそれに続いた。
「じゃあな。」
アキはドアを開けた。
「うん。」
真理は出ていく。

「真理。」
アキは真理の後ろ姿に声をかける。
「お前は何も悪くないのに。……ごめんよ。」
真理は振り向かず歩調をあげた。

膝が崩れ落ちてしまうのを必死に耐えGAYAGAが見えなくなるまで早足に通りを行く。
「あっ!真理!!」
絵里香は純平を先に行かせコンビニの前で真理を待っていた。
「ちょっ、ちょっと真理!!」
真理は顔を伏せながら早々と絵里香の前を通り過ぎる。
鼻をすすり涙を何度も何度も拭いながら角を曲がった所でへたり込み泣いた。

泣いた。
追いかけてきた絵里香は真理の正面に回り抱き寄せる。
真理は絵里香にもたれ声をあげ泣いた。

 


10


純平と坂本は菊地に誘われ3人だけの2次会をこじんまりとしたシガーバーで行っていた。
「いや参ったね。加藤さん。カクテル2杯であんなんなる?」
純平は苦笑いで言う。
「お酒だめなんだね。ネクタイでふんどし作った時にはどうしようかと思ったよ。」
菊地が笑いながら言うと二人もつられて笑う。
「色んなもんがはみ出してたよ。あいつおもしれーわ。」
坂本は葉巻をカットしながら言った。
「この3人で飲むなんて初めてだね。アキ君は、まぁ…。色々あるんだろ?」
菊地は丸くて大きな氷が一粒入ったグラスにI.W.ハーパーを注ぐ。
「まーねー。結構シビアな感じなんすよ。あの二人。まぁ真理ちゃんは何にも悪かないんだけど。うーん、でも誰が悪いってわけでもなくて…。」
前屈みで両肘を足に預けてる純平が頭をボリボリと掻きながら答える。
坂本はどっしりと深く革のソファに身を埋め、天を仰ぎながら口内に渡った煙の味を吟味する。
「乾杯。」
菊地がグラスを差し出すと二人もグラスを上げた。
「いやね、ほんとはアキ君にも居てほしかったんだけど、実は今後のリジンの事。皆には展望とか野望とか、何かほら、えー、将来的な事とか、どんなビジョンなのかなぁと思って。」
「君達はほら、人気とか売上とか地位とか名誉よりももっとほら、違う次元のバンドってゆーか。」
「正直言うとリジンは世界でも通用するバンドだと思ってる。君達の演奏技術と爆発力は世界でもトップクラス。いや、世界でも類い稀。私はそう思ってるんだが。」
「まぁ何が言いたいかっていうと、世界進出も視野に入れて今後どうかなって。その為なら私もね、出来る限りの協力をさせてほしいと思って。」
菊地は片手でグラスの氷をカタカタ転がしてる。
「ありがとうございます。菊地さんにそんな事言ってもらえると心強いです。」
純平は少しはにかんだ笑顔を浮かべる。
「菊地さんに言われっと説得力が違うな、やっぱ。世界なんてもんは元々視野に入ってたわけだし、アキも純平ももちろん俺もそのつもりでリジンを結成してる。日本のバンドもオーディエンスも確かに大事かもしんねーけど、正直眼中にねーのね。」
坂本が鋭い眼光で菊地に言う。
「アキがよく言うんですよ。言葉は国によって違うけど音は万国共通だって。世界中の人々が共通して共感できるものが、言葉の先にある圧倒的な音なんだって。」
菊地はリジンというバンドのポテンシャル、3人の向かうベクトル、そもそもの方向性が巷に溢れる数多のバンドとは一線を画している事を再認識して、ニヤリと笑んだ。
「でも今後の動き方は全てアキ次第です。リジンにおいては何事もアキの決断なんです。俺は基本的に菊地さんのお話には大賛成ですけど、こういった話はアキの居ない場ではナンセンスです。すいません。」
「うん。分かってる。ただ君達二人の意見も私は尊重したいからね。リジンはあくまでバンドだから。たった一人の意気込みだけで渡り合える程世界は甘くない。とりあえず二人の意向を知れて良かったよ。」
菊地は一気に酒を流し込む。
純平は携帯電話を取り出し電話をかけた。
「ちょっとアキに電話してみます。」
右手に携帯を持ち左手人差し指でトントンとテーブルを叩く。
「ダメだね。繋がるけど出ねーわ。」
一旦切ると今度は絵里香に電話をかけた。
「もしもし?絵里香?どうなってんの?」
純平は相づちを打ちながら静かに聞いている。
「で、アキは?」
「うん、うん、そうか。分かった。気を付けて。うん。また。」
純平は電話を切ると大きくため息をつく。
「なんかよく分かんないけど、あんまり思わしくないみたい。絵里香は真理ちゃん送ってこれから帰るみたいだけど、家着いてアキ居たらまた連絡くれるって。」
「そうかぁ。じゃぁ私達もこれ飲んだら帰ろうか。」
「えっ?もう帰んの?ダーツやってからにしようよ。」
坂本は葉巻を消しながら不満気に言う。
「純平、勝負しろよ!」
「あん?まぁいいけどよ。菊地さんにも時間あるだろ。」
菊地は微笑みながら首を横に振り
「私なら大丈夫。坂本君、私と勝負する?」
「あっ、マジで!やりましょうよ!」
二人は立ち上がると店員にダートを借りてゲームを始めた。
純平は葉巻に火を付けぼーっと考え事をしてる。
「世界かぁ。」
ぼそりと呟いた。

アンカー 7
アンカー 8
アンカー 9
アンカー 10
アンカー 11

 

11


アキはGAYAGAのステージにぽつんと一人立っている。
ステージ脇に目をやると音合わせ用に置いてあったFenderのストラトキャスターがあり、おもむろに取るとアンプに繋いだ。
「おい、あれ。リジンのアキさんじゃねーか?」
二階の照明室で片付けを行っていた二人の若いスタッフが小窓からステージを覗く。
「マジだ!皆で打ち上げ行ったはずだけど何やってんだろ?」
アキはアンプのボリュームを上げると一気にストロークした。
誰もいない会場にギターの音だけがこだまする。
「おいおい、何か始まっちゃったぞ!」
アキの息づかいは徐々に上がっていく。

それに合わせるように弦は掻き鳴らされ激しく不安定なノイズは渦となる。
「すげー……。」
「あの安物のストラトが…。」
「エフェクターもなんも使ってねーぜ…。」
「ギターとアンプだけでこんな音出せんのかよ…。」
二人の若者はアキのプレイに釘付けになりながら時たま独り言のような会話をしている。
アキがハイポジションで不調和音をこれでもかと激しく鳴らした時、6弦が勢いよく切れ顔をかすめた。

アキは両手をぶらんと垂れ下げうつむいた。

アンプからはフィードバック音が延々と流れる。
「どうしたんだろ?」
「弦でも切れたのかな?」
「なんか様子おかしくね?」
「俺下降りてみるか?」
「いや、やめたほーがいいんじゃん。」
小窓越しに若者二人はボソボソと言い合いを続けている。
その瞬間、アキは空高くギターを振りかざすとそのままステージ床に叩き付けた。
「あぁぁーーー!!!」
二人は声を揃え絶叫した。
ネックは根本から折れその反動でボディは2、3回バウンドしてはあちこちに部品を散乱させた。
シールドはアンプから外れ再び会場は静寂に包まれた。
二人は口をあんぐりと開けたまま呆然と立ち尽くす。
アキはネックを投げ捨て足元に転がってきたピックアップを蹴り飛ばすと、据わった目のままタバコに火を付け会場後ろのドアから出て行った。
「お、おい。菊地さんになんて言う………。」

アキは左手をジャケットのポケットに突っ込み、右手にタバコを持ちながらよたよたとGAYAGAを出る。
「よっ。」
聞き慣れた声に顔を上げると純平が立っていた。
「やっぱまだここに居たか。絵里香から電話あってまだ家に帰ってないって言うからよ。」
純平は微笑んだ。
「なんか菊地さんと坂本と3人で飲んでたんだけどよ、2人してダーツ始まっちゃって。お互いかなりアツくなっちゃってさ。らち空かねーから先帰ってきたんだ。」
アキは黙ったままうなずきもせず、よたよたと歩いている。純平もアキの脇を一緒に歩く。
「疲れたろ?帰ろうぜ。」
純平はアキを見ながら優しく言うと小走りに通りのタクシーを捕まえた。
「とりあえず真っ直ぐ。」
純平が運転席の後ろから伝える。
アキは助手席の後ろに乗り込むと冷めた視線で窓の外を眺めてる。
信号や曲がり角が来る度純平は運転手に指示を出すので前方をきょろきょろしている。
「あっ、あとはこの道ずっと道なりで。」
純平が言うと運転手は返事をして少しだけ無線のボリュームを上げた。
「サンホテルで停めて。」
アキが運転手のほうを見て言った。
「はい?あっ、えー…。かしこまりました。この先のホテルですよね?」
運転手がバックミラー越しに純平を見ながら訪ねるとアキは「うん。」と一声返した。
「あん?なんだよ?ホテルに泊まんの?」
アキは黙ったまま走り去る窓の外を見ている。
「なにもこのまま一緒に帰ればいいだろよ?」
純平は不思議そうにアキに目をやる。
「お前とあの家帰ったらどうせ絵里香がうっせーだろが。それに今日はなんとなくそんな気分なんだよ。」
純平は鼻で大きくため息をついた。
「そうか。わかったよ。」
5分もするとホテルに到着し、タクシーは入口前に停車した。
「んじゃな。また連絡するわ。」
純平が言ってもアキは無反応にタクシーを降り、そそくさとホテルへ入っていった。
タクシーは再び発車し純平のマンションへと向かった。

「ただいま。」
純平はぼそりと言い、几帳面に靴を並べると、明かりの点いたリビングのドアを開ける。
「あっ!おかえりー!あれっ?アキは?一緒じゃないの?どうなってんの?」
さっそく絵里香が純平に畳み掛ける。
純平は冷蔵庫に直行しビールを取ると栓を開けその場で二口飲む。
「はぁぁ。」と大きなため息のあとソファに勢いよく腰を下ろす。
「疲れたわ。」
苦笑いをしてタバコに火を着ける。
「お疲れ様。」
絵里香も軽く微笑む。
「真理ちゃんだいじょぶだったの?」
絵里香はこくりとうなずく。
「うーん。まだ分からない。実際帰りは泣いちゃって。二人がどんな内容の話ししたかも詳しくは知らないから。でも会って話し出来た事は良い事だと思うのね。今後二人がどうなってしまうのかなんて本人達も今は分からない状態なんじゃないかな?」
「泣いた?なんでだろ。それって別れたって事じゃなくて?」
「ううん。アキはもう少し時間くれって。だから今すぐ別れたとかそういう事ではないと思う。」
絵里香は空になったティーカップの飲み口を指で擦っている。
「で、ところでアキは?」
ティーカップから純平に目をやる。
「あぁ。あいつ、真理ちゃん帰ったあともずっとGAYAGAにいたみたいよ。途中までタクシーで一緒に帰ってきたけど、ホテル泊まるって言い出して。」
「はぁー、またー!」
純平は立ち上がるとズボンのベルトを外し始めた。
「とりあえず風呂入ってくるわ。」

絵里香はティーカップとビール瓶を片付けると寝室へと入っていった。

純平はぬるめのお湯にアゴまで浸かってアキの事を気にしつつも、菊地に言われた事を考えていた。
リジンがアメリカを相手に、世界を相手にどこまで出来るのか。
リジンというバンドに対する絶対的な自負、アキと坂本というずば抜けた天才を有する事への確信的自信。
純平は世界に見せ付けてやりたかった。
圧倒的な音を。
リジンという革新を。
日本人であるというジレンマやコンプレックスを一掃して頂に立つ様を。
そしてこの純平の熱い想いがリジンの世界進出を加速させていくのだった。

 

 

12

真理は一人ダイニングテーブルの窓から見える東京の夜景をじっと見つめていた。
見つめているといっても今の彼女には輝かしいネオンの数々も透き通って見えてしまう。
窓の外を生気なく見つめたまま微動だにしない。
雲行きは怪しく今にも降ってきそうである。
ライブに行った服装のまま一口も口を付けていないコーヒーは既に冷めきって湯気すら立っていない。
アキの声、言葉、雰囲気、指や仕草、そんなものを思い出す度、目には涙が込み上げた。
アキの「ごめん。」という言葉が胸を締め付けた。
次会う時に何を言えばいいのか、考えてみても言葉が見当たらない。
おもむろに立ち上がると隣の寝室へ行きクローゼットを開ける。
その奥から30cm四方の小さな箱を取り出す。
中にはアキが真理に贈ったA4程のスケッチや写真、詩などが大量に入っていた。
その1つに真理の為に書いた曲の楽譜も入っている。
真理は数枚束になったその楽譜を何気にぱらぱらとめくった。
するとその中から1枚の紙がひらりと落ちる。
それは初めて目にするアキのメモ書きだった。
真理は小さな声で読んだ。

 

 

明日、あなたの記憶が全てなくなるならば今この瞬間何をする。
明日、世界が滅びてしまうならあなたは最後に何を想う。
明日、目覚めた時天国にいたならあなたは空の上で何を祈る。
もし生まれ変わってまたこの世に戻ってきたらあなたは明日をどう生きる。

明日、私の記憶が全てなくなるならば今この瞬間あなたを抱き締める。
明日、世界が滅びてしまうなら私は最後にあなたを想う。
明日、目覚めた時天国にいたなら私は空の上であなたの幸福を祈っている。
もし生まれ変わってまたこの世に戻ってきたら私はもう一度あなたと明日を生きたい。

 


真理の心の奥底から言い表せない感情が一気に込み上げた。
「アキぃ、アキぃぃ。」
真理は震える手でそのメモを胸に抱き締めぼろぼろと泣いた。
立ち上がるとリビングに置いたバッグまで走って携帯電話をとった。
「アキ」を押す。
止まらない涙を拭いながら何度も繰り返すコールにアキがでてくれるのをひたすら待った。
涙は電話の縁を伝い手のひらにぽとぽとと落ちる。
コールはそのまま留守番電話の機械的な音声へ変わった。
真理は手を下ろし電話を切るとそのまま床へとへたり込んだ。

その時だった。

家の呼鈴がなった。
真理はインターフォンの液晶に映った人影に目をやる。
アキだった。
真理はぐしゃぐしゃになった顔でなりふり構わず玄関まで走り鍵を開ける。
「アキぃぃぃ。」
真理はアキに抱きついた。
「アキ、もう離れたくない。もう絶対、二度と離れたくない。私にはアキしかいないの。ごめんね、ごめんね。」
真理は喉に言葉をつかえながら必死にアキに想いを伝えた。
アキは両手を真理の肩に置き静かに離すと目をじっと見つめた。
「謝るなよ。逃げてたのは俺なんだからよ。」
真理は仕切りに鼻をすすりながら首を横に振る。
「真理とか女とか男とかそういうの関係なしに、俺は誰かを幸せにするとか、一生かけて守るとか、やっぱそういう事ってできねーんだわ。ずりーだろ。でもな…なんだろな……。」
「お前の事が頭から離れねーだわ。夜中に目が覚めるとお前は今日1日何してたんだろって。」
アキは笑った。
そして真理は泣いた。
アキは真理の肩を抱えたまま玄関を閉め部屋の中へと入っていった。


シャクナゲの花がほころび始めた五月の夜、外は雨が少しぱらつき始め無数のネオンをぼんやりにじませる。
ネオンがにじむのは雨なのか、はたまた涙か。
タバコの匂いの中に混じったアキの香りを真理は知っている。
アキの長い黒髪が鼻先に当たる度にその香りは広がり真理を包んだ。
まるで人の体温に初めて触れるよな不思議な感触が神秘のようで真理の息遣いは強まり、手と手は固く結ばれお互いの手のひらに滲み出た汗が重なる。
「真理」と名前を呼ばれ再び涙が溢れた。
古い木造りの時計だけが他人事のようにカチカチと音をたて、過ぎ行く時を刻み、深夜の国道を列をなして走り去るトラックのエンジン音が闇に溶けていく。
幾時経っただろうか。
張り詰めてあった真白なベットシーツが床まで垂れ下がる頃、アキの四肢は和らぎ強ばった筋肉は羽毛のようにふわふわと柔らいだ。
アキは真理に背中を向け両肩が肺の動きに合わせて上下に動く。
真理はその肩に手を置きアキの背中にぴたりとうずくまる。
アキはふと、床に落ちてる自分のメモ書きに気付いた。

「あなたと明日を生きたい。」

アキがそうぼそりと言うと、真理はきつくアキを抱き締めた。



13

「純平!純平!」
絵里香が仕切りに深い眠りの純平を呼び起こす。
「あん………。なんだよ?」
「さっきからずっと携帯なってるよ!菊地さんって出てるけどでなくていいの?」
純平は体を起こすが目は半分閉じてまだ寝ぼけている。
「菊地さん?なんだよ朝っぱらから。」
「もうお昼よ。」
絵里香は笑いながら携帯を差し出す。
「うわっ。6件も着信あるし。」
純平も目を擦りながら笑った。
履歴からかけ直すとすぐに菊地はでた。
「あぁー、純平君ごめんねー。昨日はお疲れ様。」
「うぃっす。お疲れっす。どうしたんすか?」
「ごめんごめん、寝てた?いや、ちゃっとね、どうしても早く伝えたい事があって。」
「へっ?」
「実は昨日のライブ、リッシュが下見がてら見に来てたみたいで、えらく君達の事を気に入ったみたいよ!」
「えっっ!リッシュってジェイ・リッシュ?サックスのリッシュですか!?」
純平は瞬時に目が覚めた。
「そーなんだよー。それでね、半年後にアメリカ、シアトルで開催される野外フェス、NovemberSUNフェスティバルに出てみないかってお誘いがきたんだよー。」
純平は一瞬思考を巡らす。
「マジっすかー!!」
純平は飛び起きた。
「NovemberSUNって……」

NovemberSUNフェスティバルとはジェイ・リッシュと数人のジャズの巨匠達が立ち上げた20年の歴史を持つアメリカでも指折りの野外フェスである。
ジャズ、フュージョン、ジャムバンドにインスト系のロックバンドが一堂に会す、計三日間述べ20万人を動員する大型フェスである。

「リッシュは発起人の一人だしね。昨日君達に話した事、この上ないチャンスだと思うんだけど?」
純平は信じられない心境で茫然としている。
「もしもし?もちろんリジンの決断はアキ君だからその辺もきちんと私から話すつもりだよ。このフェス、アジア系の人では大御所や有名なジャズの人しか出たことないから、君達のような日本の若手ロックバンドが出るのは異例だし快挙って言ってもいいくらいだね。どうだい?」
「そ、そうっすよね。なんか寝起きですいません。頭がよく回んねーや。でも素直に嬉しいっす。」
純平は頭をかきながら笑った。
「とりあえずアキと坂本には俺から伝えるんで、そしたら折り返し連絡しますよ。」
「うん、じゃぁとりあえずそうしてもらおうかな。何か分からないことがあればいつでも連絡して。私もリッシュと彼のマネージメントと話し煮詰めておくから。」
「分かりました。ありがとうございます。」
純平が電話を切るなり絵里香が詰め寄った。
「なに?なに?どうしたの?」
純平は絵里香の頬を優しく撫でた。
「NovemberSUNに出れるかも。」
「マジでーーー!!」
絵里香は目を見開きにっこりと笑い拍手をした。
「まだ分からないけどね。二人にも話してないし。」
純平は携帯をいじりながら話した。
「あれ?もう一件着信あるわ…。あっ、郡司さんからだ。」
「郡司さん?」
「NEET ROCKの編集者。いつも俺らの取材はこの人なんだ。」
「あぁー、あの人ね。なんか丸の内のキャリアウーマンみたいでロック好きには見えないよね。」
純平は笑った。
「でもやっぱあの雑誌に携わっているだけあってめちゃくちゃ音楽詳しいぜ。次期編集長らしいし、マニアックな話し出来るから楽しいよ、彼女。」
純平は折り返しかけ直すと携帯を耳にあてた。
「ふーん。」
絵里香は素っ気なく返事をした。
純平は大きなあくびをして首を左右に振るとコキコキと音がした。
「でねーな……。留守電だ。」
「でない?雑誌の編集者って忙しそうだもんね。でもNEET ROCKってあんなマニアックなバンドばっか取り上げて売れてるのかなぁ。」
「普通に本屋行けば売ってるし、俺の周りは結構皆買ってるよ。最近の日本人のリスナーってすごく熱心だしレベルも上がってる。メインストリームでは中々見つからないリアルな音に飢えてるんだよ。特にこの雑誌は邦楽だけじゃなくてアメリカやイギリス、ドイツとかオーストラリアのライブハウスでブイブイいわせてる次世代バンドまで特集するから素晴らしいよ。」
純平は立ち上がると本棚からNEET ROCKのバックナンバーを取り出した。
表紙には四角い小振りなサングラスをかけた純平が一人写っている。


~特集:元KID IZOの佐々木純平、遂に始動!新バンド「リジン」とは!?~

「あぁこれ、リジン結成したての頃のやつだよね?アキも坂本ちゃんも来なかったってやつ。ウケる。」
絵里香はパラパラとめくる。

リジンはデビュー当時から何度も取材を受けインタビューや特集も度々組まれた。
取材嫌いのアキと坂本は度々すっぽかしては取材陣を困らせ、その度に純平は丁寧に対応しフォローする羽目になる。
アキに至っては今まで写真撮影には一度も顔を出さず、インタビューも二言三言ほどしか答えていない。

「でもまだフルアルバムも発表してないのによくもまぁこんなにしょっちゅうリジンを取材するよねー。」
絵里香は本を閉じて純平に差し出した。
「まっ、それだけこの雑誌が見る目あるって事ね。」

純平の携帯がなる。
郡司からである。
「もしもーし。」
「あっおはようございます。お久し振りです。すいません、電話でれなくて。」
「いえいえこちらこそ。どうしたんすか?」
「いやはや、ザザの人に聞きましたよー。1stフルアルバム決定だって!是非ともうちで特集やりたいんですけど。」
郡司は多少息が切れていて歩きながら話しているのが分かる。
「さすが情報早いっすね。」
「今回こそリジンの3人揃えてばっちし表紙撮って、遂にフルアルバム発表、二万字インタビュー実現とかってどうですか?」
「ハハハ、マジっすか?大きく取り上げてもらえるのは有り難いっす。」
「当たり前じゃないですかー!リジンはインディーズ時代、タイアップなしのミニアルバムだけで数十万枚のセールスをあげライブチケットは即完売、ネットじゃ倍値でプレミア付く言わば未来の超大物なんですよー!」
郡司は興奮気味に早口で更に続ける。
「再来週の平日どこか都合良ければいかがですか?出来れば絶対絶対二人連れてきてほしいんですけど。お願いします!」
心からお願いしている熱心さが純平には伝わってきた。
「えぇ、いつも連れてくって言っておきながら連れていけてないのは俺のほうっすから、今回はマジで全部参加させますよ。」
「ほんとですか!?ありがとうございます!こちらも最高の場所とケータリング用意しますんで是非とも宜しくお願いします。」
郡司は電話の向こうでペコペコと頭をさげている。
「いえいえ、ありがとうございます。ただ1つ条件として郡司さん本人がインタビュアーとして参加して下さい。正直今までのライターは郡司さんほど俺らを理解してないし、郡司さんほど音楽を知らない。郡司さん本人が動いてくれるのであればきっとアキも坂本も来ますよ。」
「わっ私がですか?わっ分かりました。あぁやばい、すでに緊張~。」

二人は笑い合い再来週の木曜日19時という約束をし電話を切った。

「さて。」
純平はカーテンを開け空を見上げる。
「んんーー、おー晴れたなぁー。」
タバコに火を着け背伸びをした。
「なーんか忙しくなりそーだね。」
絵里香は純平の背中を頼もしそうに眺めた。
純平はそのままバルコニーに出て坂本に電話をする。
純平のマンションには寝室から窓を出ると12畳程のルーフバルコニーがあり、絵里香がちょっとした観葉植物を育てている。
ガーデンテーブルと4脚の椅子も置かれていて、暖かくなるとよくタバコを吸いに出る純平お気に入りの場所だ。

留守電になり繋がらないのでそのままメッセージを吹き込む。
「おはよー。昨日はお疲れ。すげー知らせがあるから連絡くれ~。」
ガーデンテーブルの上に置いてある陶器の灰皿にタバコの灰を人差し指で落とす。
太陽はちょうどバルコニーの真上にあり、心地よい風と暖かさに純平の気持ちはとても和んだ。
「次はアキか。でねーだろなぁ。」
純平は坂本にメッセージを入れると今度はアキに電話をかけた。
5度程コールが鳴っても出ない。
「でねーよなー。」
純平がぼそりと呟くと同時にコールが途切れてアキがでた。
「うぉ、でた。アキ?起きてた?おはよー。だいじょぶか?すげー話しがあんだけどよー、今だいじょぶか?」
純平が尋ねても返事がない。
「もしもし?起きてっかー?もしもーし?」
純平は少し声を張って呼び掛ける。
「おはよー、純平くん!」
急な女性の声に電話を落としそうになった。
タバコの煙が変に気管に入ってむせ返す。
「じゅ、純平くん??ってまさか真理ちゃん!!!なんだそれーー!!」
純平はタバコを落として大声をあげた。
受話器の向こうからアキの爆笑する声が聞こえる。
「もしもーし、あぁおもしれー。純平?」
「どういう事だよ、アキ!?びっくりするわ!」
純平はゴホゴホと咳をしながら言った。
「まぁ色々あってよ。そんな事よりどした?」
「そんな事じゃねーよ、バカ!せっかくビックリさせようと思ったのに逆ドッキリだわ~。なんなんだよー、やられたわー。」
純平は椅子に座り込んだ。
アキは始終笑っている。
「真理との事はあとでゆっくり話すから。んで何よ?ビックリ情報って?」
純平は大きく息を吐く。
菊地からの提案とリッシュの件をアキに一通り話し、NEET ROCKの取材の件も伝えた。
アキは思ったより軽くどちらも承諾した。
「NovemberSUNってすごくね?」
純平が尋ねる。
「まぁーなー。でも大した事じゃねーよ。出演者全員喰っちまうべ。」
「だな。」
純平は笑いながらうなずいた。
「で、話し変わるけどまさかお前真理ちゃんホテル呼んだのか?あのあと。」
「アホか。人の女デリヘル嬢扱いすんなや。今真理んちだよ。ちょっと寄っただけだよ。」
「人の女って…。んじゃ真理ちゃんはお前の女に戻ったって事でいいんだな!?」
「さぁな。勝手にそう思ってろよ。そんなこたどーでもいいだろが。とりあえず坂本連絡とって、今晩3人で菊地さんに会いに行こうぜ。」
「はぁあ、全くお前はほんと分かんねー奴だな。分かったよ、今夜集まれるように段取りしますよ。」

純平はアキとの電話を切ると再び坂本や菊地、郡司と連絡のやり取りをし、話しが一通りまとまる頃には灰皿に8本のタバコが押し消されていた。
リジンの3人と菊地は今晩GAYAGAで落ち合う事になった。

純平が寝室に戻った瞬間、絵里香が物凄い形相で自分の携帯画面を見せつけながら走り寄ってきた。
「ちょっと、純平ーー!たいへーーん!!」
「今度は何だよ。」
「真理からLINE来てた!これ!見て、これ!」

~絵里香、昨晩アキが会いに来てくれました。今も私の部屋にいます。私、またアキと歩んでいけそうな気がしてます!色々心配かけ過ぎてごめんね。また連絡します。~

「うぅぅぅ。アキやるじゃん!良かったねー良かったねー。」
絵里香は涙を瞳一杯に蓄えながらしみじみ言った。
「俺も今あいつと話したところ。何だか急展開過ぎてついてけねーわ。」
「でも良かったじゃん!私達の悩みの種も1つ減ったんだから。あぁほんと良かった。」
「分かんねーぞ。アキの事だから、更に今後どう展開するかなんて。明日にはやっぱ別れたって事もあり得るからね。」
「アキもそこまでバカじゃないでしょ。お祝いパーティーしなきゃねー。」
絵里香はクルクル躍りだしご機嫌だ。
「腹減ったな。飯は?」
「わたしーも♪おなかーが♪すいたーよーー♪」
絵里香がふざけた歌にのせて返答してきた。
「用意してないのね。なんかうまいパスタでも食いてーなぁ。食い行くか?」
「さんせーい!!フーフー♪フーフー♪フーーーー!」
絵里香は嬉しくて激しく跳び跳ね、それを見て純平は大笑いした。

 

 

 

 

 

14

坂本は純平からの電話を切ると再びドラムセットの前に腰を降ろした。
練習用に借りているおよそ200平米の倉庫には三台のドラムセットが赤い絨毯の上に設けられ、中央を囲むように置かれている。
少し離れた壁際には高さが1メートルもある大きなスピーカーと同じぐらいの高さの冷蔵庫、ステンレス棚にはハイハットスタンドやツインペダル、磨耗したビーターやスティックが山のように散乱している。
バーミリオンを基調としたペルシャ絨毯の上に落ち着いたアンバー色の皮のソファが異様な存在感を放ち、ガラス製のテーブルにはセブンスターのカートン箱と灰皿から吸殻が溢れんばかりに佇んでいる。
すぐその脇には散らかったマリファナの葉っぱの上に先の焦げた吸引パイプが無造作に置かれてた。
天井は優に10メートルはあり、以前使われていたであろう天井クレーンがレールの端で錆び付いて放置されている。

アナログのメトロノームがbpm80のリズムを刻む音がシンとした空間に漂う。
坂本はメトロノームの針先をじっと見つめながら、再びドラムを叩き始めた。
ノーマルにエイトビートを延々とただ淡々と叩いている。
アドリブや技は一切入れず、まるで今日ドラムを始めたばかりの中学生のように単調な動きだけを繰り返す。
坂本は毎日三時間、この一定のリズムを刻むだけの基礎練習を欠かした事がない。
彼の寸分狂わぬリズム感はこうした地道な努力から生まれる。
毎日テンポだけを変えてひたすら叩くのだ。
もちろん彼の練習はそれだけではとどまらない。
基礎を終えれば応用に移る。
応用で使用するドラムは坂本がライブでも使用するSONORのドラムセットで、ツーバスに無数のタムとシンバル群、特注で取り付けたコンゴ発祥のロコレというパーカッションが大中小と並ぶ。

リジンはギター、ベースがサイケデリックで陶酔感のある無限ループをミニマルに演じるのが1つの特徴だが、更にそれらを深淵までいざなうのが坂本のドラミングと交えたパーカッションプレイである。
原始的かつ呪縛的なその音色は人間が持つ本能的な鼓動と相まって、耳にした者は自然に身体が反応してしまう。

天井の水銀灯が坂本から流れ出す無数の汗を鮮やかに照らし出す。
長い赤みがかった髪の毛からポタポタと滴り落ちる。

その時倉庫の大きな扉が開き一筋の光が射した。
「おうっ。」
アキがギターケース片手にタバコをかざして入ってきた。
坂本は量膝に手を付き息を上げる。
「わりーな。」
500mlのビール缶をおでこに当てながら坂本は立ち上がる。
GAYAGAまでアキのバイクに乗せてもらうように頼んでいたのだ。

「あん?誰だよ、それ。」
アキの後ろからまだ幼さの残る少年が一緒に入ってきた。
「こ、こんにちは。」
その少年はおどおどとした表情で緊張し強ばっている。
「あぁ、これ?こいつドラマー。」
「あん?ドラマー?なんだそれ?」
「この前まで中坊。16歳。ハルってんだ。」
アキは少年の背中を押し出し坂本の前にやった。
「あっあっ、初めまして。新山春です。」
ハルはペコペコと頭を下げてる。
黒に金のラインが入ったアディダスのコーティングジャージを身に付け、頭にはぴったりフィットしたネイビーのニット帽を被っている。
身長は170後半で、痩せ気味なスラリとした体型をだぼついたジャージで誤魔化しているようだ。
瞳は青く大きく、その顔立ちから外人の血が入ってるのが分かる。

「お前ハーフか?」
坂本が顔を覗き込む。
「はい、一応親父アメリカ人です。中学入る前に離婚しちゃったけど。」
ハルは坂本の鋭い眼光から目を反らす。
「おい、坂本、驚くなよ。こいつの親父、リヴァイのドラマー、ショーンだぜ。」
「マジで!!リヴァイっつったら……、ついこの間日本での洋楽セールス歴代一位になったバカ売れバンドじゃん。確かビードルズの記録抜いたとか。あのアルバム20ヵ国で一位なんだろ。マジかよおめー。」
アキは坂本の驚きように笑い声をあげる。
「なっ、びびんだろ?まぁ言わばお前と同じサラブレッドよ。いきなり俺が一人で借りてたスタジオ入ってきて、ドラム叩かせてもらっていいですかって。センスあるぜ、こいつ。」
アキはハルの肩に手を回した。
「すいません。リジンのファンだったんで。アキさん見つけて、いてもたってもいられなくて。つい。」
「ショーンってあれだろ、エルビィスみてーなモミアゲしたウルフカットみてーな奴だろ?そーいや昔、日本の女と結婚したとか言ってたなぁ。」
坂本は持っていたビールを差し出すがハルは首を横に振った。
「えっ?ずっと日本なの?」
「いえ、ちっちゃい頃はアメリカでした。10歳頃からほとんど別居みたいな感じで行ったり来たり。中学からは完全にこっちっす。」
「ふーん。で、なんで連れてきたの?」
坂本はアキに目をやる。
「まだ時間あんだろ?ジャムんべ。」
アキはそう言うとギターを取り出す。
「フライングVじゃん。珍しい。ジャムるってこいつと?3人で?」
「うん。」
アキはうなずく。
「まさかおめー、こいつリジンに入れるってわけじゃねーよな?」
「まさか。」
アキは笑って答える。
「でもリジンをツインドラムにする構想は昔っからあったのよ。話した事あるよな、確か?」
「ああ、聞いたことあるよ。」
「別に今すぐどうこうの話しじゃねーし、ハルがどうこうするわけでもねーよ。ただこいつのプレイ一回見せてやりたくてよ。お前にね。」
アキはギターをスタンドに立てドラムのある場所まで行くとハルを手招きした。
「ハルちょっと来いよ。このドラムでやってみ。」
アキは先程まで坂本が基礎練習をしていたシンプルなドラムセットを指差した。
「いいんですか?」
ハルは坂本を恐る恐る見た。
「ああ、かまわねーよ。これ使いな。」
坂本はステンレス棚から真新しいスティックを差し出した。
「16ミリのオークだけどいいか?」
「あっ、だいじょぶです。ありがとうございます。」
坂本はスティックを手渡すとソファに腰を下ろしタバコに火を着けた。アキも隣に座りハルがセッティングする様を眺めている。

ハルはおもむろにプレイを始めた。
「あっ、これ。」
坂本はすぐに気付いた。
「俺らの曲だよ。」
アキがささやく。
ハルはリジンのファーストミニアルバムの一曲目に収録された「The ending kills me」を演奏しいる。
始終スネアとタム、ハイハットが織り混ぜった16分音符のアップダウン奏法とモーラーを用いた32分音符が目まぐるしく続き、バスをかかととつま先にて高速にダブルで踏み込みツーバスのような効果を出すのが特徴的な曲だ。
その合間合間には突拍子もなく変拍子が入る。
それはそれは至難の技である。
ハルは目をつむり、神経を集中させながら完璧にその難所をすり抜ける。
CDのテンポ、ドラム音、手数、手癖、全てをそのままに完コピしている。
「どうだ?お前と全く同じように叩ける16なんてこの世にいねーだろ。しかもあんなちんけなセットで。」
「確かにすげーガキだな。この曲やるにはタムが二つ、シンバルは三つ足りねぇはずだよ。やろー今ある手持ちだけでアドリブかましてやがる。」

曲はエンディングに差し掛かり、パラディドルのダブルストロークの合間合間に手数の多いフィルを挟み込む。
足元は相変わらずヒールトゥを繰り返す。

アキは立ち上がると手を叩き演奏を止めた。
「ありがとよ。完コピだな。」
ハルは肩で息をしている。
坂本は冷蔵庫から冷えたビールを取ると春のもとへ行き渡した。
ハルは手に取り開けると喉を鳴らし一気した。
「すげーな。お前。俺の小6の時と同じぐらいうめーよ。」
ハルは笑った。
「ありがとうございます。」
「演奏は確かに完コピだな。でもまだまだだな。まずキックが弱い。筋肉が足らねーな。それにフットペダルの原理を理解してねー。1回家帰ったら分解してみることだな。せっかくのペダルのバネを無駄にしてる。だからヒールトゥで音ムラが出る。それじゃ玄人はごまかせねーぜ。腕の振りは大したもんだよ。しっかり基礎やってんのが分かる。怠るなよ。」
坂本はハルの肩を2回叩くと、SONORのドラムに座った。
「お前のキックはこうだ。」
坂本が実際にやってみせる。
「でも実際はこうだ。」
「分かるか?分かるよな。」
坂本はにっこりと笑う。
「すげー。たった一音聴いただけなのに本物ってこんな違うんすね。俺が必死こいて習得したやつ、間違ってたんすね。」
ハルは肩を落とす。
「何言ってんだよ。そこまで習得すんのだって常人じゃ無理だわ。ましてや俺を完コピなんぞ100年はえーわ。」
「でも俺嬉しいっす。周りの連中とバンド組んだってレベル低くて詰まんなくて。俺よりドラム上手い奴なんか日本の高校生じゃいないし、どこか天狗になってたのかな。今日もほんとはアキさんと坂本さん出し抜いてやろうって。バカですよね。」
ハルははにかんだ笑顔を見せる。
「どう?坂本。」
アキは倉庫に置いてあるマーシャルの真空管コンボアンプにフライングVを繋ぎながら言った。
足元にはビッグマフのアナログファズとBOSSのスーパーディストーション。
「まぁ原石だわな。基礎の量増やしてもっとドラムって楽器の仕組みを理解すりゃものになるよ。」
「だってよ、ハル。批判されなかったって事は一目置かれたって事だかんな。すげーぞ、お前。」
「うぃっす。」
ハルは小さくうなずく。
「ハルとアキか。俺と純平は夏と冬に改名するよーか。」
坂本が言うと3人で笑った。

「うぉーい!」
純平がサングラスを額まで上げて後頭部を掻きながら入ってきた。
「すげっ、リジンが揃った!」
ハルの目が輝く。
「なんで純平まで?」
坂本が言う。
「あん、だってバイク3人乗れねーから。ハル送んなきゃなんねーし。結局純平の車でGAYAGAだよ。」
「まぁ俺はお前らのお抱え運転手だからな。」
純平が言うとドラムセットに座るハルに目をやる。
「おぉー、君かー。アキに話しは聞いてるよ。すごいんだってな。よろしくな。」
握手の手を差し出しながら近づいた。
「あっあっ、宜しくお願いします!」
ハルはジャージのズボンで手のひらをごしごしと拭くと純平と握手をした。
「わけーな。でもいい指してるよ。相当スティック握ってきた手だな。分かるよ。」
純平は真っ直ぐハルの目を見て、優しく微笑みかけて言うと、ハルは胸に込み上げるものを感じ一瞬泣きそうになった。
「どれ、んじゃ四人でセッションしてみっか!」
純平は肩に下げたケースからベースを取り出すとそそくさとローランドのアンプに差し込む。
「急いでたからな。エフェクターはなしだ。」

アキが「The ending kills me」のイントロを弾きだすと坂本と純平の面持ちが変わり楽器を構える。
「おい、ガキんちょ、しっかり付いてこいよ!」
坂本がスティックをクルクルと回しながらハルに呼び掛ける。
ハルは大きく深呼吸をすると不敵な笑顔を見せた。

新山春。
この逸材の登場が後のリジンの運命を大きく変えるのだった。

 

 

vol.2



15

「要は地力だよ。」
菊地はコーヒーをすすりながら話し始めた。
「他のバンドと君達リジンの差ね。地力。東洋人は100m走じゃ白人にゃ敵わない。その白人も黒人にゃ敵わない。事、身体能力においては黒人ってのは地力が違うんだ。バネも筋肉もね。リッシュは音楽における君達のきっとそこを見抜いたんだよ。私自身君達からそんな印象をライブを見る度にビシビシ感じてるんだ。明らかに他とは違うって。」
リジンの3人はGAYAGA二階の一室にある菊地のオフィスを訪れていた。
パソコンが置かれたデスクと低いテーブルを挟んでソファが二つ置いてあるだけの、だだっ広く殺風景な部屋だ。
純平と坂本は菊地と向き合う形でソファに座り、アキはパソコンデスクのオフィスチェアーの背もたれを目一杯倒してクルクルと回っている。
「一応ザザレコードには知らせて了解を得てるから、君達のマネージメントは請け負ってもらう。デビューアルバムに向けて良い起爆剤だって喜んでたよ。フェスの関係者ともこれから打ち合わせていくつもりだよ。ただその前に3人の意見を聞いときたくてね。どうだい?November SUN?」
「俺達も菊地さんから連絡あって3人で話して、出演するって意向になりました。最近のNovemberSUNは古典だけにとどまらず、新しい分野にも積極的だし、メンツだって毎回素晴らしいですから。」
純平が答えた。
「そっか。それは良かった。ほんとこの上ないチャンスだと思うよ。こんなに早くリジンの音を世界で鳴らせるなんてね。で、アキ君も今回の件はオッケーなんだね?」
菊地はアキに尋ねる。
「あ、うん。いいよ。ただ一つ条件があんだ。」
「条件?」
「確か出演時間は一時間だよね。その内の何曲かツインドラムでやりたいんだ。」
坂本が吹き出す。
「なっなに?ツインドラム?」
菊地は驚いた表情で笑っている坂本に目をやる。
純平も笑いながら説明した。
「いや実は一人すげードラマーがいて、さっきも四人でセッションしてきたんですけど、坂本のドラミングほぼ完コピしてんですよ。まだ16のガキなんですけど。ってアキ、本気で言ってんの?」
「あぁ。あいつはリジンを更に進化させる未来の逸材だ。今から育てたってバチは当たらねーよ。遅かれ早かれリジンはツインドラムにする構想だったし。」
純平も坂本も何も言わない。
リジンの決定権は全てアキに託しているしアキの言う事は常に信頼してきた。
菊地は口をあんぐり開けている。
「でっでもアキ君、その子はいきなりこんな大きな野外フェスで期待できるような働きをしてくれるのかい?君達だって初めての事で本来の持ち味を出せるかなんて不透明なところなんだよ。」
「本来の持ち味?菊地さん、NovemberSUNなんて俺達にとっちゃほんの通過点に過ぎませんよ。ここで潰れてるようなら初めから出るなんて言わないし、逆に対バンのつもりで他の連中喰ってやるつもりですよ。その為の布石として俺はハルを推してるんです。」
「ハル?」
「新山春。そのガキの名前です。」
「でもそうなってくると話しが違ってくるよ。だってリッシュは君達3人のライブを見て誘ってくれたんだから。」
「そうだね。言わばリッシュが新生リジンを認めてくれるかって話しでしょ?その辺は任せて下さいよ。」
アキはほくそ笑む。
「ちょっと純平くーん。」
菊地は困った表情ですがるように言った。
「いやでもまだフェスまでは時間あるし、アキにも考えがあるみたいなんでもう少し待ってもらえませんか?」
「う~ん。そっかぁ、まさかそう来るとは思わなかったなぁ。でもとりあえず先方には出演の意向は伝えるよ。」
「前座。」
アキがぼそりと言う。
「えっ?」
菊地はコーヒーを飲もうとした手を止める。
「今度のリッシュのライブ、俺らを前座に起用してくれないかな。30分でいいから。リッシュにはこれがほんとのリジンだって言って。」
アキは立ち上がりタバコに火を着け言った。
「それを見てリジンが本当にフェスに出るべきかどうか決めてくれってさ。」
「アキ君……。」
「はぁーあ。ったくよ。今すぐどーなるとかじゃねーって言っといてしっかりハルの事考えてんじゃねーかよ。」
坂本はサングラスを取って袖でごしごしと拭いている。
「実はショーンとリッシュは去年のNovemberSUNで共演している。一曲限りの特別ゲストとしてショーンが呼ばれたんだ。」
「ショーン?ちょっと待って、話しが全然分からないんだけど!」
菊地は立て続けに転がる話しに困惑している。
「マジかよ、アキ。って事は…。」
純平も驚いている。
「はぁん、そーゆー事かよ。」
坂本は薄ら笑いを浮かべる。
アキは続けた。
「新山春、こいつの親父はリヴァイのドラマー、ショーンなんだ。親父がショーンだから春をリジンに入れるわけじゃねーよ。でも今、春がリジンに加入すれば話題性でも抜きん出る。なんせ親父があのビッグバンド、リヴァイのドラマーでその倅もドラマーなんだからな。リッシュが目を付けた俺達3人プラス、ショーンの息子が加入したってなったら、そりゃあっち様も断る理由なんかないだろ。」
菊地は黙り込んでなにやら考えている。
「なるほどね…。要はその春って子はリヴァイのドラマーの息子で、確かなテクを持っていて、君達とも既にセッション済みで、リッシュは去年ショーンと共演してて、ハル君を加入させる事でリジンの実力もフェスでの知名度もグンと上がるってわけね。そしてそれらのテストとして今度のリッシュのライブの前座をやらせてほしいって事か。」
「さすが菊地さん、飲み込みはえーっす。」
「分かった。そういう事ならリッシュ側には前座の事話ししてみる。出来るかどうかは私でも分からないけど。出来る限り説得はするつもり。でもね、アキ君。このテストはリッシュ側だけじゃなくて、私に対してもという事を忘れないでね。この前座ライブでその春って子が本当にリジンにとってプラスなのか、君達の音そのものがどう変わるのか、じっくり見させてもらうよ。」
「うん。分かった。」
アキは灰皿にタバコを揉み消した。
「じゃぁとりあえずそういう方向でお願いします、菊地さん。あとアキ、一応そういう形にもってくなら俺達に前もって一言くれよ。俺も坂本も初耳だぞ。」
「あぁ。俺も今思い付いたからな。色々考えたら色々な点と点がくっついてな。」
「まぁーいいじゃねーか。リッシュの前座もハルを加えたフェスもどっちも面白そーじゃん。とりあえずあいつは俺のとこで特訓だな。」
坂本もタバコの火を消して笑った。

菊地はこの時この3人に宿る底知れぬ力を再び感じていた。
瞬時にフェスまでの構成を組み立てたアキ。
ハルという強力な新人が持つポテンシャルの高さと彼を加入させる事での強運。
あまりにも出来すぎているこのリジンという存在に僅かな恐怖すら抱いた。
どこか人知を越えた因果を感じずにはいられなかった。

アンカー 12
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アンカー 15
アンカー 16

16

「はい!それじゃー皆さんこっち向いて下さーい!」
眼鏡をかけた短髪で白髪混じりのカメラマンが3人に呼び掛ける。
リジンは都内のとある貸しスタジオにてNEETROCKの取材を受けていた。
アキはだぼついた赤と紺のストライプ柄の薄手のニットにダメージジーンズとゴールドのオールスターを履いた出で立ち。
純平は真っ白なワイシャツに真っ白なデッキシューズ、オーカー色のチノパン、坂本はピッチリとした革ジャンのチャックを上まで上げ細めのモズグリーンのパンツ、青々としたドクターマーチンのブーツで髪をゴムで後ろに縛っている。
「あっあっ、ちょっと3人全員がタバコ吸っちゃうと煙でほら…あはは。」
カメラマンは焦点を合わせていたレンズから顔を上げて苦笑いした。
「あぁそう?」
アキと純平はタバコを消したが、坂本はくわえたまま腕を組んでいる。
真ん中に置かれた椅子にアキが座り、その両脇に純平と坂本が立っている。
「ははは。じゃぁ撮りましょうか!皆さん自然体で~。」
カメラマンはカシャカシャと連続でシャッターを押し始めた。
「みんなー、少しは笑ったらぁー。」
カメラマンの後ろから編集者の群司が言った。
「あん?いいから早くしろよ。」
アキは窓の外を眺めながら言い返す。
「もぅ、ほんと写真嫌いなんだから。」
群司は溜め息混じりにつぶやく。

「みんな、お腹すいてない?色々食べ物あるけど?なんならインタビュー食べながらでも。」
郡司はテーブルに並んだケータリングを指差す。
「うわっ、すげーな!俺腹減ったぁ~。」
アキはラップやプラスチックの蓋を次々と開けていく。
「インタビューはそこの大きなソファでやりますから。食べたいもの取ったら来て下さいね。」
一人お皿に盛り付けするアキに向かい郡司が言った。
既にそのソファには純平と坂本が座りビールを飲み始めていた。
「アキ君相当お腹すいてるみたいね。」
郡司はお皿にこんもり盛っているアキの姿を見て吹き出しながら純平達の座るソファの前に腰掛けた。
テーブルの上にはノートパソコンとボイスレコーダー、束になった資料やメモ帳が置いてある。
「あいつああ見えて滅茶苦茶食うんですよ。この前なんかペヤングの大盛り立て続けに2個食ってましたから。」
「えぇーほんとにー!あははー!あんなに痩せてるのに!よく太らないわね。羨ましいぃ。」
アキは両手に皿を持ってソファの端に座った。
「純平、これ。」
坂本がアキの皿を指差し笑った。
「いやいや、アキ。ガトーショコラの脇にカレーよそるかね。おもいっきりかかってんじゃん。」
純平のつっこみに坂本も郡司も大笑いしている。
アキは無視してパクパクと食べ始めた。
「はい、みんな揃いましたね。ではNEETROCK来月号の特集、リジンのフルアルバム発表間近としてお三方にはインタビューにお答え頂きます。どうぞ宜しくお願いします。」
郡司は頭を下げた。


N:NEETROCK(郡司 由美)
アキ:リジン ギター
純平:リジン ベース
坂本:リジン ドラム


N:「さぁ、日本のロックキッズ達が待ちに待ったリジンのフルアルバムがいよいよ発表されるということですが、実のところまだ全貌は見えてません。今回のアルバム、一体どんな仕上がりを見せるのでしょうか?」
純平:「えぇ、実はもう音録りは全て終わってて、今は細かな修正やCDジャケット、アートワークの最終的なデザインなんかの段階で、俺らの手元から離れていく感じですね。今までインディーズで発表してきた3枚のミニアルバムのいずれとも異なる出来であるのは確かで。」
N:「異なる?それはインディーズ時代の3枚と比べ大きく変わった?それとも延長線上に新たな何かが加わった?」
純平:「もちろん同じバンドの同じ3人の人間で作ってるものなので、根本的な音楽の方向性が大きく変わる事はない。ただ幅が広まったって感じかな。」
N:「リジンは一貫してインストを貫いてるけど、このスタイルに至った経緯って何かあるのかな?」
純平:「まぁリジンの曲は全てアキが書く。アキが歌もん書けば俺達は歌もんもやる。クラシック書けばクラシック。シャンソン書けばシャンソン(笑)。それだけだよ。」
坂本:「ただただ音を鳴らす。この3人の能力がもっとも発揮できる事が自ずと今のスタイルなだけだよ。」
N:「ではそのリジンの中枢、アキさん。一言。」

この時アキは一人食事をとりながらインタビューを受けていた。

アキ:「あ~……。うめーこれ。エビフライ。エビフライって嫌いな奴いねーだろ。アメ公が食おーがナチスが食おーがチャイニーズが食おーが、結局皆うめーって言うんだわ。」
N:「うん??」
坂本:「俺フライ嫌いだし。」
アキ:「肌の色違くても共通して認識出来るもんってあるわけよ。ドという音はどの世界でもドなわけでレという音はどの世界でもレでしかない。」
N:「というと?…言わばリジンのスタイルって世界が共通に認識出来るものを作っていると?」
アキ:「さすが郡ちゃん。するどいね。」
純平:「言語はある特定の範囲でしか使えない。基本的に日本語は日本でしか使わないでしょ?音楽という世界の共通語の中に歌詞という外来語を合わせる事にそもそも違和感があんのかな。」
N:「なるほど。ではリジンというバンドは世界も視野に入れてるという事ですね?」
坂本:「一つの物事やり遂げるのに世界が視野に入ってないなら初めからやらなきゃいいよ。オリコンの上位見てみろよ。クソしかいねーじゃん。」
純平:「そういう事言うなよ(笑)。俺達のアルバムが上位に入ったらどうすんだよ(笑)」
坂本:「日本の一般人がインスト聴くとは思えねーな。メインストリートには向いてない音楽であるのは百も承知だよ。」
N:「しかしリジンのライブはいつも即日完売、ネットでは倍近い売値で売買されているし、日本のリスナーも捨てたものではないでしょ?(笑)」
純平:「もちろんもちろん。ただ事CDセールスおいてはやっぱり爆発的って訳にはいかないかな。」
N:「やってる事がマニアック?」
純平:「決してマニアックではないよ。逆に純粋過ぎるんだと思う。」
坂本:「音楽をやる才能があるように、聴く才能ってのもあるからね。でも一部の人達が理解してくれて、それが世界規模になれば自ずと影響力も出てくるよ。」

アキが席を立ち窓際でタバコを吸いはじめる。

N:「ふふふ。アキさんってどんな方?」
純平:「まぁ、一般的な常識とかルールとかは通用しないっつーか、なんか俺達がいる外側を浮いてるってつーか。規格外な印象は今でも受けるよ。」
N:「坂本さんは?アキさんの印象。」
坂本:「バンド以外では関わりたくないよね。絡みづれーし(笑)」
純平:「(笑)でもほんと俺には一生かかっても持てないものを持ってる。産まれた時から定められた何かをね。」
坂本:「まぁあんま身内褒めても気持ちわりーから、悪口でも言っとくか?それならいくらでもあるよ!」
N:「いえいえ(笑)。では次にお三方のずば抜けた演奏技術の出発点についてですが。坂本さんはやはりプロとして活躍するお父さんやお兄さんの影響が大きかった?ドラムはいつから?」
坂本:「母親の腹にいる頃から、いや、母親の腹に宿るもっと前から太鼓の音聴いてきた。スティックやペダルが転がってる中をハイハイしてた。初めてドラムを叩いたのを覚えてねーくらい、ちっちゃなガキの頃から叩いてた。とにかく兄貴に負けるのが嫌で競うように練習したよ。でもいつも親父がワンフレーズ叩くとなんにも敵わなくて、最初は憧れだったけどそのうち悔しさが勝ってきたんだ。」
N:「その悔しさこそ上達のバネになったのね?」
坂本:「今考えるとそうかもね。親父にも兄貴にも出来ない技とか考え付かないフレーズとか。それらを日々常々特訓してたのがそのまま、今の俺のスタイルになったんだね。」
N:「純平さんも実は幼少の頃からピアノやバイオリンを習っていたとか?」
純平:「うちも音楽一家だったから。親父はピアノマンだったしお袋は楽団でチェロを弾いてた。その影響で、というより物心ついた時には既に回りに楽器があふれてた(笑)」
N:「クラシックの道に進もうとは?ロックをやるきっかけって何かあったんですか?」
純平:「俺は一人っ子だから兄弟はいないんだけど、向かいの家に1個上の兄ちゃんがいてね。小中ってよく一緒に学校行ったり遊んだり。中1のある日その兄ちゃんが1枚のアルバムを貸してくれたんだ。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのバトル・オブ・ロサンゼルスだった。いや~クラシックの温室育ちの俺にはかなり衝撃だったよ。」
N:「なるほどー(笑)レイジが既成観念を破壊したのですね!」
純平:「たった四人なのにその音の塊でボコボコに殴られた感じ?まぁそっからはハードロック、パンク、ヒップホップにメタル、ミクスチャーとお決まりコース(笑)」
N:「アキさんは影響受けたアーティストは?」
アキ:「うーん。誰だろ。アーティストっていうよりカントとかラカンとか。デュシャンとかマレーヴィッチとか?音楽でいうとコンセプチュアルなものやミニマル、ノイズ、音響系やエレクトロニカ。あとBerryz工房かな。解散して残念なんだ。マジで。」
N:「Berryz工房のファン?」
アキ:「うん。モモチでオ○ニー!」
N:「ゴホン。それでは本題のニューアルバムの話題に戻ります。今回、デビューアルバムでは異例の二枚組、全120分の超大作!特にディスク2に収められた一曲40分越えの楽曲は圧巻です。」
純平:「その曲はこのアルバムのハイライトですね。今までほとんど部外者は招かずレコーディングは行ってきたのですが、この曲に関しては40人編成のオーケストラや尺八奏者、少年ハーモニー楽団とやりたい放題(笑)」
N:「まだ手元に音源がないのがほんと残念。ただ話を聞いただけでもワクワクしちゃいますね。早く聴きたいです。」
坂本:「実際はほんと大変な作業だったよ。アキの書いた楽譜を元に度重なる打ち合わせ、セッション、セッション。リジンの3人には阿吽の呼吸があるけど、第3者が加わるってこんな大変なんだって。最後は全員お揃いの一発録りで完成品を聴いた時はさすがに胸が踊ったよ(笑)こりゃすげーぞって。」
アキ:「俺は俺の聴きたい音楽だけを作るし、俺が今までに聴いた事のない音楽を作りたいって思ってる。焼き増しや真似事はもう沢山なんだ。素晴らしい事はそれらを成し遂げられる唯一の人間が奇跡的にこのリジンという一つのバンドに3人集まったって事。世界中探してもどこにもいない奇跡的な人間達がね。」
N:「いまだに世界的影響力を誇る日本、いや東洋のロックバンドは存在しないと言っても過言ではないでしょう。しかしそんな壮大な夢をあなた達を見ているとどこか感じずにはいられません。これは私の勘違いなんかではないですよね?」
アキ:「あなたは正しいよ。あなたは正しい。」
N:「ありがとうございます。今年のNnovemberSUN、健闘を祈ってます。」
アキ:「がんばる。ありがと。」

郡司は手を差し出し3人と握手をした。

17

「こうこう。こうこうこうこう。」
「もういっちょやってみーよ。」

「・・・はい」

ハルのVネックの黒いTシャツは大量の汗で背中にぴったりとこびり付いている。
坂本は白いボクサーパンツだけを身にまとい頭にはタオルを巻いてくわえタバコ。
ここは坂本の練習場。

「お前よ、リジンのドラムパート完コピしても何の意味もねーぞ。コピーで満足ならその辺のガキどもとやれや。」
タバコを床に投げ捨て、低い声と睨むような目付きでハルに言い寄った。
「すいません」
ハルは口元でぼそりとつぶやく。

伝説のサックス奏者ジェイ・リッシュの前座を3日後に控え、ツインドラムとして初のライブを試みようとしているリジン。
そのキーマンとなる若干16歳のドラマー新山春。
彼はライブが決まったその日から坂本の練習場に寝泊りし一日中ドラムを叩き続けていた。

「この後アキと純平も来て4人で合わせる。それまでに今のパート完璧にしとけよ。」
坂本はTシャツとハーフパンツを履くとドアから出て行く。
ハルは大きく深呼吸をすると汗を撒き散らせながら再びスティックを振った。

「11582円になります」
坂本は近くのコンビニで500mlのビールを10本、セブンスターのカートン、パンや烏龍茶などあれこれと買い足す。

「おう!」
コンビニを出たところで早めに到着した純平が後ろから声をかけた。
背中にはベースケースを背負いエフェクターケースを手に持っている。
「そこで絵理香に降ろしてもらったんだわ。あっ、ビール買ったのね?俺も今から買って行こうとしてたとこ。」
純平は笑顔で言った。
「どうよ、ハルくん?あんまりいじめんなよ。」
「はえーな、くんの。いじめる?こんなめんどくせー状況、俺がいじめられてんだろ、ボケ」
「まぁまぁ」
純平は坂本の脇に並ぶと肩を組んだ。
坂本はすかさずその手を払うと通りのベンチに腰掛けタバコに火をつける。
「まぁほんとの所ありゃなかなかだぜ。」
煙を天に吹き出す。
「じゅうぶん即戦力?」
純平は坂本の隣に腰を下ろした。
「ツインドラムの機能はちゃんと理解してるし、自分のやるべき事は分かってるみたいだ。そこから教えるとなるととてもじゃねーけど3日後なんて間に合わねーからな。」
「ふーん。痛ぶってる割にはちゃんと理解してるだな、ハルの事。」
「フンっ」
坂本は鼻で笑う。
「ママゴトじゃねーんだよ。他のバンドなら今のハルでも宝の持ち腐れだが、リジンではそうはいかねー。選ばれし者、クリスタルの四戦士だけが集うところだろ?」
「ハハッ、FF3かっ!でもお前のレッスンはスパルタだからな。それがハルにとって自信喪失に繋がりかねない。現代っ子は打たれ弱いんだぜ。」
「バカ言えよ。あいつが打たれ弱い?アキのスタジオに1人で乗り込んだり、初めて会って叩いた時も胸中俺らを出し抜こうとしてたクソガキだ。」
「そっか。ならいいけど。でも、なんとなくだけど俺達はまだハルのポテンシャルを測り切れてない気もするよね。」
「確かにな。俺が考えた新しいフレーズ、ほぼほぼ一発でやり遂げやがる。なんかよー、違うんだよな、他の奴とは。洞察力と暗記力かな?一度教えると些細な事も見逃さずきっちり覚えちまう。そん時だけはなんつーか、人外感あるわな。」
坂本は笑いながらかかとを折った古びたスニーカーの裏でタバコを押し消した。
「まっ、ひとつ言える事はハル加入でリジンは進化するよ。今回もアキの正解かもな。」
排水溝の穴に消したタバコを指先で跳ね飛ばし入れようとしたが外れて歩道に転がった。
純平は立ち上がりその吸殻を拾いコンビニのゴミ箱に捨てた。
「ポイ捨てすんなよな。」
坂本も立ち上がりコンビニ袋を持つと、純平と練習場の方へと歩きだした。

「んで、お前の16歳の頃と今のハルならどっちが上?」
純平の純粋な好奇心からの問いだった。
「それだったら…」
坂本は間を置き少し考えた。

「ハルかな」

純平は足を止める。
「マジでーーーー!!」

「まっ俺がまじめにドラム叩き始めたのは17からだからな。」

純平は小走りに坂本に近づくとまた肩を組んで笑った。


2人が練習場へ近づくにつれハルのドラムの音が徐々に大きくなる。
「おっ、やってるやってる。」
純平が頼もしそうに言った。
坂本はそそくさと入り口のドアを開け中へ入っていくと純平も続いた。
「よっ、ハル。」
純平は左手を挙げ手を振る。
「うぃっす」
ハルは息を切らせながら挨拶を返した。
「汗拭いて着替えな。とりあえず休憩。水分とれよ。」
坂本はコンビニ袋から買ってきた物を取り出しテーブルに並べながら、ハルに水を投げた。
ハルはそれを一気に飲むと歩きながら服を脱ぎだす。
「あぢぃぃ。坂本さん、シャワー浴びていいっすか?」
ハルは残り少ないペッドボトルの水をひたいに当てながら言った。
「あぁ、浴びてきな」
坂本と純平はソファーに座りビールを開ける。
「ハル、お前昨日スティック持ったまま寝落ちしてたろ?」
坂本は口を手で拭いながら笑った。
「そーなんすよ。なんで起こしてくれなかったんすか!昨日風呂にも入ってないからめっちゃ体くせーっす。」
ハルが腕を上げ脇を嗅ぎながら言うと純平はビールを吹き出した。
「おい!バカ!ソファーにこぼすなよ!」
坂本は慌ててティッシュを大量に取り純平に投げた。
「わりーわりー。やばっ。鼻からも出てきた。」
純平とハルは大笑いした。

18

 

頭に被せたバスタオルからは濡れた髪の毛が無造作に飛び跳ね、

 

アンカー 17
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